弦と破壊
クレーナの工房は薄暗かった。
動力区画の一角にある作業場に明かりはあったが、主の姿はなかった。壁面に整然と並べられた工具類が、エーテルの光脈に照らされて鈍い金属光を返している。作業台の上には修復途中の回路板が数枚、精密な並びで置かれていた。機械油と古い金属の匂いが、薄い空気の中に沈んでいる。
ナナハルトは背中から盾を下ろした。
盾型変奏器が、石畳の上に静かに横たわった。
四本の弦が薄い光を受けて鈍く光っている。一番細い高音弦はまだ半音ずれたままだった。誰かが力任せに触った跡が残っている。詰所で、ハルグリムとソスヴァルドが起動を試みた指の跡。弦の付け根には、エリの角の欠片で弾いた時に付着した青白い残滓が微かにこびりついていた。
懐から角の欠片を取り出す。黒曜石に似た薄い結晶が、工房のエーテルの光を受けて鈍く明滅している。弦の付け根にこびりついた残滓と、掌の中の欠片。同じものだった。同じエリの角から砕け落ちた、同じエーテルの信号を保持した結晶。
この欠片を弦に当てて弾けば、弦は鳴る。エリの力を借りなくても。ナナハルトの音楽がなくても。誰の手であっても。ただ、エーテルの発動やあの武器としての効果には完璧な音楽が必要だった。
耳の底に、あの日の和音が蘇った。
弦が空気を震わせ、エーテル回路が振動を増幅した。パイプオルガンの光が天蓋から降り注ぎ、ヴィェランの弦と共鳴した。音波が戦場を覆い、グランツの黒い鎧が赤い霧になって空気に溶けた。何百人もの人間が、自分の指先の一振りで、紅い霧に。
指先に残っている。弦を弾いた時の、あの、抵抗なく人体を壊した時の軽さ。
「壊すしかないんだ」
壁の工具架けから、ペンチを取った。
クレーナの工具だった。握りの部分に長年の使用で磨り減った跡があり、鉄の冷たさが掌に沁みた。顎の噛み合わせは正確だった。修復のための道具。直すための道具。それを今、壊すために使おうとしている。
高音弦に刃を当てた。が、そこで一旦手が止まった。
音楽はいつもナナハルトと共にあった。そこから産まれたこの楽器を、いま失う。あの広場でヴィェランの音に合わせてカリンバを弾いた日。クレーナの工房で回路の脈を聴きながら無意識に口ずさんでいた日。エリが遠くからそれを見ていた日。全部が、この四本の弦の上にあった。
だが、この弦が張ってある限り、明日の追撃戦でハルグリムに使われる。そしていつか、角の欠片の秘密に気づかれる。そうなれば、エリの体を削って作ったこの結晶が、誰でも虐殺者になれる着火装置として量産される。
エリの欠けた角が脳裏に閃いた。砕けた黒曜石の断面。体表を走るノイズ。「あなたの責任ではないわ」と言い切った平坦な声。
ペンチを握り直し、高音弦を切る。
硬い弦が弾けた瞬間、切断面からエーテルの残光が指に走った。回路に蓄えられていた微弱なエーテルが金属を伝って放電し、掌を刺すような熱さが親指から手首へ駆け上がった。オゾンの焦げた匂いが鼻腔を突いた。切れた弦の一端が盾の共鳴胴に当たり、低い残響が一瞬だけ鳴って消えた。
二本目の中高弦にペンチの顎を噛ませた。同じ力で切り込む。弦が断たれた瞬間、一本目より強い放電が素手を灼いた。蓄積された残留エーテルが破断面から皮膚に直接流れ込み、指の腹が内側から膨れ上がって水疱が浮きかけた。
三本目の中低弦を断った時、共鳴胴の底板が微かに震えた。三本の弦を失った構造体は防具としての骨格だけを残し、もう音を返す器ではなかった。腫れ始めた右手でペンチの握りに指を曲げるたびに、膨れた皮膚が引き攣れた。
最後の一本に刃を当てた。最低音弦、四弦の中で一番太く、ヴィェランの原型が持つ深い持続音を受け持つ弦だった。これがあるから、この盾は楽器でいられた。これを切れば、もう音楽は失われる。
切った。
太い弦が弾けた。放電が最も激しかった。蓄積されたエーテルが一気に解放され、白い閃光が掌の中で散った。指の間から手首まで、内側から灼けるような痛みが走り抜け、皮膚が焦げる匂いが自分の手から立ち上った。反動で盾が僅かに動き、共鳴胴の最後の残響が工房の壁面に反射して消えた。重く虚ろな音だった。楽器が死んだ音だった。
四本の弦が石畳の上に散らばっていた。
盾は残った。金属と木と革の複合体。弦を失った共鳴胴はただの箱になり、弓の溝はただの傷跡になった。演奏機構が取り除かれたことで、残ったのは頑丈な防具としての骨格だけだった。
四度の放電に晒された両手は、もう左右の区別もつかないほど腫れていた。関節を曲げるたびに水疱の縁が裂けかけ、焦げたオゾンの匂いが指先からこびりついて離れなかった。
ペンチを工具架けに戻した。師匠の道具を借りた場所に、正確に。
これで、あの欠片で弦を弾くことは二度とできない。ハルグリムが盾を手に入れても、鳴らす弦がなければ兵器にはならない。
「おい。人間」
声がかかってびくりとした。黒い猫――管理者の一人であるルカが音もなく工房の中にいた。
「びっくりしたよ、ルカ。いたのか」
ナナハルトが地下都市に技術を習いに来ていた頃、こんな風にいつの間にかナナハルトの事を見に来ていた。今となっては懐かしい。
「お前さ。他の人間の心配はしなくていいのか? ここに着たら、僕が殺る。それが僕の役割だからね。エリュシオンだって都市の中なら単特で、人間を蹴散らせるよ」
出会いを思い出した。ルカは、最初はナナハルトを排除しようとした。元住人のヘイルルーンさんも、ルカに追いかけ回されて命からがら逃げたと言っていた。だが――
「エリはそんな事しないよ。だって、地上の人間も守ってくれた」
広場で、敵が大量に霧になったのだって、ナナハルトと街を守った結果だった。
「僕は反対するからね。交渉しに来るって? そんなの全部殺ればいい。お前はエリュシオンのお気入りだから残す。気がついたらお前しかいないって風にもできるよ」
ルカは相変わらず戦闘的だ。だが、ルカだってエリの指示には逆らえない事を知っている。
「そんな事になったら戦争になるよ――いや、地上の人間の僕が言うことじゃないか。心配させたな」
「心配なんかしてないよ」
はあ、とルカはため息をついて人間の形態に変化した。エリと同じ歳頃の少年の姿。出会った頃は同じ歳くらいに思えていたのに今ではナナハルトも背が伸びて、もうかなり歳下に見える。外見上は歳をとらない彼らに対してナナハルト自身は成長してく。
「お前いつも……全く、調子狂うなあ」
ルカは盾を背負うのを手伝ってくれた。
「僕はできるだけエリを護るように行動するから。地上も地下もどちらも、僕の居場所なんだ」
結局は地上の王も参謀も、よりよい暮らしを目指しているだけなのはナナハルトだって分かる。王国に家族もいて友もいる。何か、共存できるはず。王だってそう言っていた。
「結局、僕もルカと変わらないよな。他国を追い出して、国を護るって」
夜が明ける前に、追撃戦のためにに戻らなくてはならない。護る為に戦うことの難しさがナナハルトの身にしみてきた。
「この気持ちのまま他国を攻めにいかなくてはいけないなんて、どんな皮肉だろうね」
ルカはこの問いには答えなかった。




