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エリとの再会

 途中からロープの長さが足りなくなった。だが、そこから壁に光が灯った。地下都市の管理者の領域で見る、あの青白い光の筋。


 壁面に把手が見える。だが、まだ底は見えない。遠いという事実だけが分かった。


 腕の筋肉が悲鳴を上げていた。鈍い痛みが手首まで這い上がってくる。それでもここでやめるわけにはいかない。


 空気が変わったのは、体感で三十分ほど経った頃だった。


 首筋にまとわりついていた氷点下の大気が嘘のように薄れ、代わりに湿り気を帯びた生ぬるい風が下から吹き上げてきた。地下の温度。地上の雪を忘れさせる、季節を持たない暖かさだった。巨大な機構が呼吸するように空気を押し上げている気配が、壁面の石を伝って掌に届いた。


 最後の数メートルを降りて足が底に着いた時、膝が折れかけたが踏ん張って立ち、顔を上げた。


 エリュシオンの天蓋に埋め込まれた疑似太陽が、静かに光っていた。街路のエーテル灯は灯っており、遠くで浮遊ポッドが移動する低い駆動音も聞こえた。


「来ましたか」


 声は背後から聞こえた。


 振り返ると、縦穴の出口の脇、壁面と柱のあいだの狭い空間に長身の人影が立っていた。暗がりの中で濡れ羽色の黒髪が疑似太陽の光を受け、微かに青く偏光している。


 クイル・コード・コーヴァス。


 倒れたエリを連れ帰った機械的に整った男がそこに立っていた。ナナハルトはほっと息をつく。


「エリは」


「無事です」


「声は、届いていたのか」


「はい。あなたの声は、こちらに届いていました」


 クイルの返答は静かだった。


「ブローチの双方向通信は、昨夜の段階で送信系が回復しています。ですが受信系、こちらからあなたへ音声を届ける経路は、まだ完全ではありません。信号の明滅で応答を返すのが、現在の限界です」


 少し間を置いて、クイルは続けた。


「あなたの周囲の音声は、ずっと私たちに届いていました。王城の会議も全て。ブローチの修復が完了すれば、音声での双方向会話が可能になります」


 ずっと聞こえていた。三日間、この都市の底で、あの詰所のすべてを。ハルグリムの声も、ソスヴァルドの声も、自分がついた嘘も。全部。声を返せないまま、ただ聞いていた。


「正規ゲートからの侵入は、あなたの声と、回路の起動で把握していました」


「ブローチを見せていただけますか」


 ナナハルトは首元の留め具を外し、鴉のブローチを差し出した。クイルの長い指がそれを受け取り、観測器がブローチの赤い石に触れた。


「修復は可能です。朝までにはお返ししましょう」


「お願いします」


 クイルはブローチを懐に収めた。


「エリュシオンが、待っています」


 動力区画の回廊を歩いた。


 壁面を走るエーテルの光脈は輝いていた。前回よりも僅かに輝度が落ちている気もしたが、判別がつくほどの差ではなかった。ただ空気の底に漂う機械油の匂いが以前より濃く、どこかの回路が過熱しているのか、オゾンに似た微かな焦げ臭が鼻腔の奥をかすめた。


 回廊の奥、制御室との境界にあたる広い空間で、足が止まった。


 エリが横たわっていた。彼女の傍らには、管理者の一人であるウーラが寄り添っていた。


 ウーラの手には、液体が張られた器があった。彼女は悲痛な顔で濡らした布を絞り、エリの身体を慎重に拭っている。

 エリの身体からは、バチバチと不規則な青いノイズが弾けていた。手の甲から前腕にかけて、発光と消滅を繰り返す微細な亀裂が這っている。亀裂が走るたびに小さな放電の火花が弾け、オゾンの焦げた匂いが空気に混じった。エーテル回路の深刻な過負荷痕だった。


 そして何より、右角の先端が欠けていた。

 美しい弧を描いていた黒い角が途中で断ち切られ、断面は砕けた黒曜石のように鋭く露出している。



「来たのね」


 体表でノイズが弾け続けているのに、エリの声だけが傷ひとつない精度で空気を渡った。ナナハルトはエリの側に駆け寄った。


「エリ……角が」


 凍えた肺から絞り出した声は、自分の耳にも届かないほど薄かった。


「あなたの到着を確認した。現在の都市稼働率(システムステータス)は八十二パーセント。主要システムは正常稼働。わたしの修復も想定範囲内で進行しているわ」


 異常はない、とエリは言った。


「こんなに熱を出して……なにが正常ですか」


 ウーラが、泣きそうな声で零した。彼女の手がエリの額を拭うと、布から薄い蒸気が上がった。エリの身体は、癒しの水すらすぐに気化させてしまうほどの異常な熱を帯びていた。それでもエリは、ウーラの言葉を訂正するように首を振った。


「欠損は把握している。再生には時間がかかるけれど、都市管理への影響は軽微。演算精度の低下は0.3パーセント以内に収まっているわ」


「エリが頑張ってくれたのに、僕は彼らの目を、北の山脈に向けてしまったんだ」


「会議の内容は、把握しているわ。春までの猶予が生まれた。あなたの判断は合理的で最適解」


 合理的。最適解。この少女は、傷だらけの身体でまだそんな言葉を並べている。


「……あの日だって、君は合理的なんて言って」


「あの日のことも……あなたを失う事は都市にとってマイナスだから……あの場で護るのは、合理的、だった。あなたの居場所、失わせたくなかったの」


 彼女は、ナナハルトの行動を肯定し、あの日戦場で犯した虐殺すらも合理的な判断だったと言い切ろうとしていた。だが、ナナハルトには、エリが必死に繕っていることがわかった。


「そうか。やっぱり、僕の為だったんだ。エリは、あれだけの武器としての効果を予測していた?」


「あれは本来の力よ。都市の防衛機能として。でも、あなたには大きすぎたのね。ずっと、苦しんでいるの。聞こえた」


 エリはウーラの手を借りながら起き上がった。


「僕の手であんなに人を一方的に……殺した」


「あれは、わたしの判断。あなたの楽器を使ったのは、最も効率的な手段だったの。だから、あなたの責任ではないわ。人ではない、都市の意思」


 ナナハルトに罪悪感を背負わせないため、彼女は必死に管理者としての用語を使って慰めようとしているようだった。

 人ではないと言って、線を引こうとし、ナナハルトを慰めようとするエリは、かえって王城の王や参謀よりもずっとナナハルトの心を見ている。

 エリの不器用な言葉は、かえって彼女自身の心の痛みであり、感情だった。


 出会った頃から変わらない少女の外見に引っ張られている訳ではない。人にはない力を持ち、この地下都市を支えているとしても、エリはナナハルトにとって、ひとりの大切なヒトに違いはない。

 胸の奥が落ち着かなくて、エリに触れようと手を伸ばした。



 エリの視線が、ナナハルトの手に落ちた。半田で膨れた親指に煤がこびりつき、指先の隙間から薄い血が滲んでいる手を見た。


 エリの瞳が、大きく見開かれる。


「あなたの、手が」


 エリの指が微かに動いた。ナナハルトの手に触れようとして、システムに制止されたように、空中でピタリと止まる。


「手が、壊れれば。音が、失われるの……」


 言葉が、綻んでいた。

 論理の皮を被った言い訳が、自身の発するノイズと熱の中で崩れ落ちていく。放電が激しくなり、エリは伏し目がちに視線を落とした。


「……ナナハルトの守りたいもの。私も、守りたかった。でも……やりすぎだったのね」


 それは、システムとしての報告ではなく後悔のように聞こえた。


 ナナハルトの視界が歪んだ。


「エリ。いいよ。エリが無事で、失われないでいてくれて。僕はエリがあのまま動かなくなってしまったんじゃないかって、それが一番怖かった……無事で、ただ無事でいてくれて良かった。それでいいんだ」


 ナナハルトにとって恐ろしいのは喪失だった。父の死。倒れたエリ。あと一歩で失いそうになったロルフの命。

 いや、今一番想っていたのはエリの事だ。もう二度と会えないなど耐えられなかった。

 奥歯を噛み締めても、嗚咽が漏れる。熱い涙が冷え切った頬を伝って、床の石畳に落ちた。


 ウーラの蛇のような下半身が立てるスルスルと動く音が静かな空気に響き、すすり泣くナナハルトの前に、白い影がしゃがみ込んだ。


「手を出して。とても痛いでしょう」


 ウーラの柔らかい手が、ナナハルトのボロボロの両手を包み込んだ。

 エリの修復に使っていた液体―― おそらく、修復用のエーテル溶体だろうか。液体で濡らした布で、火傷と凍傷で引きつれた皮膚を優しく拭っていく。


「人間にも、その液体は効くわ。ウーラの判断も最適ね」


 エリの瞳が細められた。それがまるでやさしく笑っているようで、ナナハルトは余計に涙が溢れてくるのを感じた。


「二人とも、どうしてこんなに不器用なのかしらね……」


 ウーラが悲しそうに微笑んだ。手のひらから伝わる水溶液の冷たさが、ナナハルトの頭をクリアにしていった。


――護らなければ。この優しくて不器用なエリを、便利な兵器として使わせてたまるか。


 これ以上、エリを削らせるわけにはいかない。ハルグリムの思惑通りになどしない。


 ナナハルトは乱れたエリの髪をそっと撫でた。温かい、滑らかな感触が伝わってくる。それは、失われるにはあまりにも惜しい、かけがえのない感触だった。

 エリはただじっとナナハルトの手を見つめ、それ以上何も言わなかった。


「ありがとうウーラさん。僕はこの盾を、壊す。ただ、護るためだけの盾にするために」


 涙を拭い、ナナハルトは立ち上がった。喉の奥はまだ乾いていたが、歯を噛み締める力は戻っていた。ウーラの手当てのおかげで、指の関節がどうにか曲がった。

 背中の盾が、革紐越しに肩を圧している。あの日、弦を弾いた時の振動がまだ残っている盾。


 振り返らずに、歩き出した。向かうべき場所は決まっている。

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