単独の忍び足
ナナハルトは二つの決意をしていた。楽器盾の武器としての機能の破壊と、地下都市の確認。それを今夜行う。
足音を殺して、ナナハルトは小走りで進んだ。雪が頬を叩く。
時刻の上ではまだ夕刻と呼ばれる時間帯に、ナナハルトは城へ向かった。
ウィンターガルドの冬の夕刻は、既に深夜と同じ重さの暗闇と凍気に支配されている。
瓦礫撤去の作業着のまま、裏手の通用口に回った。
兵舎と薪置き場のあいだに設けられた鉄扉に手をかけた。三日間の修繕作業の途中でナナハルトが蝶番の歪みを直した扉だ。音を立てずに引く。
詰所の樫の机に、盾はまだ置かれていた。
詰所が無人で助かった。
いくつかの言い訳を考えていたが、うまくごまかせる自信もなかったからだ。
昨夜ここに座らされた時の、不眠の熱気と暴力的な明るさが嘘のように静まり返っていた。
盾を持ち上げ、背中に回す時、革紐を通す拍子に弦が一度だけ鳴った。低い残響が石壁に跳ね返る。心臓が喉元まで跳ね上がった。懐の内ポケットで、角の欠片が微かに振動した気がした。弦の音に、欠片の中の残留エーテルが応えている。
明日、この盾が追撃戦に持ち出される。ハルグリムはナナハルトに「使えない」と言わせたが、あの参謀が盾を眠らせたままにしておくとは思えなかった。家族を盾に強要してくるかもしれないし、あるいはエリの存在から何か策を立て、ふたたび武器として使うよう迫ってくるかもしれない。
だから、物理的にどうにかしなければいけないのだ。
城の裏手にある厩舎に忍び込み、一頭の馬に雪除けの厚手の毛布を被せ、手綱を引いて通用口を抜けた。明日の追撃戦の準備で荷馬車の往来が激しく、端の馬が一頭消えたことに気づく者はいなかった。松脂の街灯がまばらに灯る裏路地を選んで北へ向かう。
復興作業を終えた兵士たちのための、配給の飯屋から漏れる明かりを大回りに避けた。壁越しに疲労と興奮の入り混じった兵の笑い声が届き、その声が遠ざかるまで建物の影で馬の鼻面を押さえて呼吸を殺した。吐く息の白さが街灯の薄暗い光に浮かび上がるたびに、見つかるのではないかと肺が縮んだ。
王都の石畳はすでに白かった。新雪に蹄の跡が残るが、夜のうちに雪が降り続けば朝には消えると祈るしかなかった。手綱を握る右手の親指には半田付けの火傷が残っており、乾燥してひび割れた皮膚に雪の粒が入り込むたびに、小さく鋭い痛みが走った。
城壁の外へ出ると、雪の密度が増した。
地下都市への訪問は、今までなら石切場の出入り口を使っていた。城壁から山を一つ迂回して谷を越え、丸一日かけて辿り着く、都市の壊死した末端が崩落してできた隙間。だが今夜は一日もかけていられなかった。明日の追撃戦が始まる前に戻る必要もあった。
街灯の光を背中に置いて、馬の腹を蹴り、雪の丘陵を北西へ駆けた。
街の明かりから離れるほど暗闇が広がる。薄く積もった雪が月を反射して雪あかりとなっているのが救いだ。見えない轍や岩に隠れた窪みに、新雪にぬかるんだ地面が馬の脚を取る。それでも、訓練された軍馬はナナハルトに従順に足を前に運んだ。
手綱を握る指先が凍りつき、感覚が完全に失われていく。風が顔を叩き、吐く息が睫毛を白く染めた。
丘の麓の林で馬を降りた。風を避けられる大樹の根元に手綱を結び、雪除けの毛布を掛け直してやる。懐から取り出した干し麦を口元に寄せると、温かい息が腫れた指に当たった。
「寒い中、ごめんな。ここで待っててくれ」
馬の首を撫で、最後の斜面は自分の脚で登った。凍った斜面を四つん這いになって這い上がる。
丘の頂に立った時、眼下に見覚えのある景色が広がっていた。
苔むした列柱の残骸が半円を描くように地面から突き出し、六角形のタイルが嵌め合わされた古い石畳が、雪の下に沈んでいた。東端に、風に押されてぐにゃりと南へ幹を曲げた、あの大木が立っている。
正規ゲート。エリュシオンの大深度昇降機の終点。
エリと初めて地上に出た場所だった。
本来なら、この昇降機はエリのためのものだった。都市の中枢と地表を最短で直結する最も太い管。エリの身体を安全に搬送するための正規ゲートであって、人間が勝手に使っていい経路ではない。
だが石切場まで丸一日歩いている余裕はなかった。
大木の根元を回り込み、列柱のあいだを抜けて、覚えのあるタイルの一隅に手を当てた。手袋を剥いだ素手で、六角形の継ぎ目を辿る。指先が悲鳴を上げるほど冷たかった。だがその冷たさの奥に、微かな振動が触れた。エーテル回路。生きている。あの日、エリの手が触れて開いた回路と同じ脈動が、まだ流れていた。
起動点を探した。エリから教わった配列を指先で確かめる。三つ目の突起に触れた瞬間、タイルが僅かに熱を帯びた。回路が応答した証だった。
列柱の足元で、石畳の一部が軋みながらずれた。その奥に、縦穴が開いていた。
昇降機構は動かせなかった。一度の起動で都市の定常供給の数パーセントが消費される。エリがパイプオルガンの光をもって戦場を焼き払った日から、都市のエーテル残量がどれだけ減っているか分からない。昇降機を動かす選択肢は最初からなかった。
鞄のロープを取り出し、縦穴の入口に残った把手に結んだ。背中の盾を締め直し、穴の縁に足をかけた。
胸元のブローチに、声をかけた。
「クイルさん。正規ゲートから入ります」
赤い石が明滅したが、声は返ってこなかった。送信はできていると信じたかった。そうでなくとも行けば分かる事だ。
「……降ります」
明滅が二度、短く揺れた。応答の信号だった。雪が穴の入口から舞い込んで、闇の底に吸い込まれていった。
ロープを握り直すと火傷した指が軋んだが、手は離さなかった。そのまま闇の底へ降り始めた。




