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瓦礫と彼女の欠片

 午後に入ると、ナナハルトは白いサーコートを畳んで鞄に押し込み、着慣れた革鎧の姿で南区画の瓦礫撤去に入っていた。

 焼けた食料庫の跡地は、まだ灰と焦げた麦の匂いが地面から立ち昇っている。


 崩れた梁の下から煉瓦を一つずつ掘り出し、手押し車に積んで運び出す。


 同じ作業を朝から繰り返している兵士と民間人の列に、ナナハルトは黙って混じっていた。

 壇上で英雄と呼ばれた少年が、数時間後には煤まみれの作業着で煉瓦を運んでいる。だが誰も奇異な目を向ける者はいなかった。兵士たちは皆、同じように白いサーコートを脱ぎ、同じように泥と汗にまみれて瓦礫と格闘している。昨夜の戦場を生き延びた者たちの間には、言葉にならない連帯が流れていた。


 煉瓦を掴む手は、昨日のエーテル放電と三日間の修繕作業で腫れが残っていた。指を曲げるたびに関節の皮膚が引きつれ、冷えた煉瓦のざらついた表面が腫れた指先に食い込む。だが、動かせないほどではなかった。何かを動かしていないと、頭の中で耳鳴りと歓声が重なって呼吸の仕方を忘れそうだった。


 ロルフは生きている。ヘイルルーンの治療院で意識が戻ったと、朝方に聞いた。命に別状はないが、しばらく背を起こせないらしい。生きている。それだけが、今日一日を動かす力の底にあった。


「よっ」


 隣で煉瓦が積み上がる音がした。赤い髪が視界の端に映り、アデルベルトが手押し車の横に並んだ。白いサーコートはとうに脱いで腰に巻きつけ、額に巻いた布が汗と煤で灰色に変わっている。


「俺たち、この歳で騎士なんてな。大した出世だろ」


 軽い声だった。煉瓦を掴む手を休めず、隣に並んで同じ作業を始めている。ナナハルトの方を見ずに、ただ隣にいる。


 治療院の階段で、ナナハルトの様子がおかしいことにアデルベルトは気づいていた。だが、それでも今、何も聞かず、わざとらしいほど普段通りの声で煉瓦を運んでいる。


「ロルフの奴も元気に喋ってるらしいじゃん。目が覚めたら開口一番が『弓使いが矢に打たれるって冗談かよ』だって。あいつらしいよな」


 笑い声が、冬の空気の中で白く散った。


 ナナハルトは頷いた。頷くことしかできなかった。アデルベルトの言葉は聞こえていた。意味も分かっていた。だがその軽やかさが、今の自分とはあまりにも遠い場所にある音のように響いた。騎士になれたことを素直に喜べる世界。ロルフの無事を笑い話にできる世界。アデルベルトが立っている場所と、自分が立っている場所の間に、紅い霧の厚さほどの断絶が横たわっている。


 アデルベルトはそれ以上何も聞かなかった。ただ隣で煉瓦を運び続けた。時折、ナナハルトの手元をちらりと見て、何かを言いかけて、やめた。その繰り返しだった。


 日が傾き始めた頃、手を止めた。


 手袋の中で指先が痺れていた。冷気のせいか疲労のせいか、指の感覚が鈍っている。無意識に、懐に手を入れた。


 革鎧の内ポケットの中で、指先が硬い何かに触れた。昨日の戦場で拾い上げた、エリの角の欠片だった。あの時ピック代わりに盾の弦を弾いた、親指の爪ほどの黒い結晶。薄くて鋭い断面が、手袋越しにも指先に食い込んだ。質量はほとんどない。だが手袋の布を通しても、微かなエーテルの残留振動が皮膚を刺している。固有の波長が、まだ消えていない。この欠片の中に、エリの回路の残滓がいまだ閉じ込められている。


 ナナハルトは欠片を取り出しかけて、指が止まった。


 あの戦場で何が起きたか。この欠片を弦に当て、弾いた瞬間の抵抗のなさ。エーテルが金属を伝い、光が管を走り、紅い霧が広がった。エリの身体から遠隔で送られてきたエーテルの波長と、この欠片に残留していた信号が共鳴を起こし、盾の弦を「正しい周波数で」振動させた。


 共鳴の起点は、欠片の側にあった。


 エリの身体ではなく、エリから切り離されたこの欠片の中に残留しているエーテルの信号が、弦を鳴らした。この欠片さえあれば、エリが不在でも盾の弦は鳴る。


 腹の底を、冷たいものが這い上がった。


 エリが必要だと言ったのは嘘ではなかった。あの瞬間、エリは命を削って力を送ってくれた。だがこの欠片は、エリの力の「写し」だった。エリの体から離れてなお、エーテルの残響を保持し続けている破片。これを弦に当てて弾けば、調律の技術がなくても、力技でエーテルを回路に流し込むことは可能になってしまうかもしれない。不完全で、制御が効かず、効率は最悪だろう。完璧な演奏での、戦場規模の破壊は再現できなくとも、何かしらの兵器には成り得る。


 ハルグリムがこの欠片の存在を知ったら。弦と欠片の存在は最悪の事態を起こしかねない。


「ナナハルト?」


 隣から声がした。


「どうした。手ぇ止まってるぞ」


 アデルベルトが煉瓦を抱えたまま、こちらを見ていた。赤い髪の隙間から覗く目が、今度は普段通りを装いきれていなかった。ナナハルトの顔に何かを読み取ろうとしている。


「……なんでもない」


 声が掠れた。欠片を握り込んだ手を、咄嗟にポケットの奥に戻した。手袋の中で黒い結晶が掌に食い込んでいる。アデルベルトの視線が、ポケットに消えた手に一瞬だけ止まり、そして逸れた。


「そっか」


 それだけだった。アデルベルトは煉瓦を手押し車に載せ、何事もなかったように作業に戻った。その横で、ナナハルトの掌の中ではエリの角の欠片がエーテルの微振動を続けている。親友に見せられない秘密を握り込んだ手が、手袋の中で冷たい汗に濡れていた。





 日が落ち始めていた。


 灰色の空が西の端だけ薄い橙色に染まり、瓦礫の影が長く伸びて石畳を覆い始めている。作業を終えた兵士たちがばらばらと引き揚げていく中、アデルベルトが「じゃあな」と軽く手を上げて去っていった。その背中を見送りながら、ナナハルトは角の欠片を内ポケットに戻し、手袋を嵌め直した。


 胸の内ポケットに手を入れると、ブローチの赤い石が指先に触れて微かに明滅した。


「え。光った……クイル、聞こえるのか?」


 だが、返答は無かった。それでも、動きが再開した。希望はある。


 だがその安堵の光の裏側で、もう一つの欠片が内ポケットの底に沈んでいる。エリの身体を削って生まれた、死の種。自分の懐の中に、楽器を兵器に変える鍵と、エリの生存を示す光が、布一枚を隔てて共存している。


 明後日、追撃戦が始まる。王が自ら精鋭を率いると宣言した。ナナハルトは聖騎士として随行を命じられている。盾は今、あの詰所の長机に置かれたままだ。ハルグリムの手の届く場所に。


 行軍の前に、盾を取り戻さなければならない。そして弦を。この欠片でもう二度と鳴らせないように。エリをこれ以上、兵器の部品にさせないために。


――楽器を壊さなければならない。


 ナナハルトは瓦礫の山に背を向け、王城の方角へ歩き出した。

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