純白の英雄
広場に木の壇が組まれた。
夜のうちに兵士たちが瓦礫の中から梁を引き抜き、即席の演壇を作った。
聖王国への国名の改定、聖騎士団の発足、グランツへの侵攻について、国王の演説を行ためだ。
壇の正面に赤い布が一枚垂らされているが、冬の風に煽られて端がめくれるたびに、下の汚れた木目と焼け焦げが覗いた。踏み板に足を載せると、木がかすかに軋んで沈む。昨夜の戦場の残骸が、今朝は王の足場になっている。
広場は人で埋まっていた。
昨夜の戦火で焼けた南区画からの避難民が、着の身着のままで広場の東側を占めている。額に包帯を巻いた老人の隣に、煤で顔を黒く汚した母親が立ち、その足元では配給の列に並びそこなった子供が服の裾を握って離さない。
後ろから兵士に制止される声が、冬の空気の中で白い息と共に散った。西側には聖騎士団――昨夜までは従士団と呼ばれていた面々が整列していた。
真新しい純白のサーコートが、隊列の全員の肩に掛けられている。
一晩で数十着の儀礼服を仕立てられるはずがなかった。漂白された上質の生地に、襟元と袖口に銀糸の十字の刺繍が這っている。聖教皇庁の正装であり、聖騎士に許される最上級の儀礼服。ルキウスがこの日のために、前々から用意していたとしか考えられなかった。あの修道騎士の周到さが、白い布の畳み皺の一つひとつに透けて見える。
列の先頭にブランドが立っていた。従士団長――いや、聖騎士団長として、初めて白いサーコートに袖を通した壮年の男の横顔は、誇りと疲労と、そして昨夜の戦場で失った部下たちへの沈黙とが入り混じった、複雑な色をしていた。
その後ろに、アデルベルトの赤い髪が見える。白いサーコートの多くがまだ新品の硬さを残して肩に張りつき、戦闘直後の兵士たちの煤だらけの顔との落差が、どこか芝居の衣装のように浮いていた。
石畳にはまだ昨夜の戦闘で飛び散った瓦礫の破片が掃ききれずに残っていて、群衆が足を動かすたびに砂利を噛む乾いた音が広場の底に這った。
冬の曇天が広場を覆い尽くしていた。雲の底が低く、吐く息が白い。気温は昨夜からほとんど上がっておらず、壇の上に立つ人間の肩から蒸気が薄く立ち昇っている。
ソスヴァルド王が壇に上がった。
「ヴィンターガルドの民よ」
声が広場を走った。戦場で部下の名を怒鳴るために鍛え上げた声帯が、冬の空気を一直線に貫いている。
「まず、生きていてくれたことに、礼を告げよう」
短い間を置き、王は広場を見渡した。視線が最前列を横切り、包帯を巻いた老人の隣で煤けた頬の母親が唇を噛んでいるのを、その足元で子供が服の裾を握ったまま動かないのを、一人ずつ拾っていった。
「昨夜の戦いは、お前たちの戦いだった。石を投げた者がいる。水を汲んだ者がいる。逃げずに隣人の手を引いた者がいる。お前たちの一人ひとりが、この街を支えていた」
広場が静かだった。兵士も民も、声を返さなかった。王の声だけが、曇天の下に真っ直ぐ伸びている。
「家が焼けた。備蓄が奪われた。傷を負った者がいる。帰らない者がいる」
王の声が沈んだ。胸郭の底を震わせるような響きに変わっている。
「それでも、この街は立っている。お前たちが立っているからだ」
吐く息の白さの中に、何人かが顔を伏せた。嗚咽が一つ、広場の端から漏れた。
王は待った。嗚咽が遠くで途切れ、風が広場の瓦礫の隙間を鳴らす音だけが残った。その間合いの底が沈みきるのを見届けてから、王は息を吸い直した。
「壊された家は建て直す。傷ついた者は癒す。奪われた備蓄は――取り戻す」
語尾が跳ね上がった。王の声が冬の空気を叩き割り、壇の上から広場の隅々まで一直線に届いた。
「逃げた敵は、南へ走っている。グランツの残存部隊は、国境付近の駐屯地に立て籠もっている。あの臨海の拠点には、奴らが我々から奪い去った物資が積まれている。食料も、燃料も、全てだ」
指が南を示した。
「追う。追って、取り戻す。奪われたものは全て、この街に返す」
広場の空気が変わった。避難民の中の男が一人、拳を握った。兵士の列で誰かが盾を叩き、金属音が石壁に跳ね返った。
「王都の復興に、人手は要る。だからこそ、全軍は不要だ」
王は一歩前に出た。壇の縁に立ち、群衆を見下ろした。急造の踏み板が、その重みで微かに軋む。
「精鋭のみを率いて私が先陣に立とう」
広場が揺れた。群衆の喉から声が噴き出し、昨夜の戦火で冷えきった空気が熱を帯びた。王が自ら行くという言葉が、足元の瓦礫ごと石畳を揺さぶっている。
「留まる者は街を守れ。瓦礫を片づけ、壁を直し、傷を癒せ。行く者は、私と共に走れ。王都に春を取り戻すために」
拳が次々と上がった。兵士の列から始まった波が、避難民の側にまで伝播していく。老人が杖を突き、若い女が子供を抱え上げ、声にならない声で王の名を呼んだ。
ソスヴァルドは歓声を遮らなかった。碧眼が広場の隅々を巡り、声の波が石壁に跳ね返って戻ってくるのを待った。それから右手を上げ、掌を広場に向けて開いた。歓声が引き、冬の風だけが壇の上を通り抜けた。
「そして。もう一つ、伝えることがある」
王の視線が、壇の脇に落ちた。
壇の袖で、ナナハルトは立たされていた。
手以外の汚れも綺麗に洗い落とされていた。兵舎に湯が用意されていた。汚れた革鎧も、従卒によって綺麗に清められた。昨夜の戦場にいた痕跡が、一つも残されていない。その清潔さが、ナナハルトの肌を粟立たせていた。
肩から膝丈まで垂れた純白のサーコートが、ナナハルトの全身を覆っていた。ルキウスが用意した聖教皇庁の正装。隊列に並ぶ仲間たちと同じ白い布が、ナナハルトの肩にも掛けられている。糊の利いた硬い生地が首筋に擦れるたびに、かぶれたような微かな痒みが走った。銀糸の刺繍が、灰色の曇天の光を吸って鈍く光っている。
漂白された布の過剰な白さが、視界の端々にまで染みていた。今朝の湯で爪の間まで磨き上げられた手が、聖騎士の袖口から覗いている。三千人を霧に変えた、あの手だった。
広場の空気が、壇の上のナナハルトを見ていた。数千の視線が、冬の冷気と共に少年の胸元に押し寄せてくる。
「昨夜、お前たちは光を見た」
王の声が続いた。
「天から降りた奇跡の中で、この少年が盾を構え、弦を鳴らした。敵は退き、城壁は守られた。あの光は、我々ヴィンターガルドが真に神の加護を得たことの証明だ」
紅い霧。人の形が崩れていく速さ。あの広場の焦げた空気の味が、喉の奥から蘇りかけた。ナナハルトの拳が白い袖の中で握られ、爪が掌に食い込んだ。
「我が国の従士団は、これより聖騎士団へと昇格する。団長にはブランドを任じ、その名の下に新たなる秩序を打ち立てる。そして今この時をもって、我らヴィンターガルドは奇跡に祝福された『聖王国』として新たに樹立する!」
広場にどよめきが走り、直後に爆発のような歓声が上がった。ルキウスがもたらした教会の解釈が、王の宣言によって国家の歴史へと結びつけられた瞬間だった。ナナハルトが隠し通そうとしたエリの命の在り方は、『神聖な奇跡』という巨大な王国の意思によって完膚なきまでに塗り潰されていた。
王がナナハルトの方に手を差し伸べた。新しき聖王国の、最初の英雄として壇上に上がれ、と。
足が動かなかった。膝の裏が痺れている。壇の脇に立ったルキウスが、背後から肩にそっと手を添えた。修道騎士の指先に力が込められ、その顔は恍惚とした歓喜に紅潮していた。押されたのか、促されたのか。気がつくと三段の木の壇を登っていた。急造の踏み板が足の下で軋み、木の繊維が靴底を通して足裏に震えを伝えている。
昨日の戦場と同じ広場には、王都の人々が立っていて、その全員が期待に満ちた顔でこちらを見上げていた。
「ナナハルト・アスター」
王の声が、広場を射抜いた。
「お前は新生ヴィンターガルド聖王国の聖騎士だ。お前の盾は民を護り、お前の音は敵を退けた。お前は、我が国の英雄だ」
英雄。
昨夜、暗い廊下で膝をついた時にも聞いた単語が、今度は民衆の頭上に放り投げられた。
「英雄だ!」
誰かが叫んだ。
「ナナハルト卿万歳!」
声が波になった。広場の東から西へ、石壁に跳ね返って戻ってきた。拳が上がり、盾が鳴り、子供の甲高い声が混じって、歓声の塊が石畳を揺らした。壇の足元から震動が靴底を通して脛に這い上がってくる。
ナナハルトの耳の内側で、甲高い耳鳴りが鳴っていた。昨日の戦場で弦を弾いた瞬間から消えない、金属が擦れるような音。歓声はその耳鳴りの向こう側で鳴っていた。
白い袖から覗く手が震えていた。
目の前の群衆は、昨日の戦場を生き延びた人々だった。壁の向こうで怯えていた母子がいた。瓦礫の下から引き出された老人がいた。あの紅い霧を知らない子供が、父親の肩車の上から手を振っていた。全員が笑っていた。全員が自分を見ていた。人を霧に変えた手を持つ少年を、英雄と呼んでいた。
悲痛な戦の後の希望の高揚は、見事に作り上げられた。王や参謀の目論見どおりに。
ソスヴァルド王が、ナナハルトの肩に手を置いた。
「明後日の追撃戦の活躍も期待しているぞ」
「了解、です」
自分の声が遠かった。耳鳴りと歓声の向こう側で、自分の声だけが、ひどく静かに響いている。




