善意の呪い
王が上座に向かって歩き出した。軍靴が石畳を踏む音が、一歩ごとに硬く重いものに変わっていく。
「方針を決める」
上座に着いた王は、詰所の全員を見渡した。暖炉の光が頬骨の稜線に影を落とし、その視線が一人ずつの顔を通過していく。
「春の雪解けと共に、北方山脈への調査団を編成する。ハルグリム、規模と編成を任せる。ディートリヒ、兵站計画を。ナナハルト――お前が橋渡し役を務めてくれ。お前が仲介すれば、血を流さずに済む」
橋渡し。共存できると言ったのは自分だった。エリは人間と共に在ることを望んでいると思います、と。あの言葉が今、楔に鋳直されて、少年の退路に打ち込まれようとしている。
「それと」
胸郭の奥から押し出すような響きが、詰所の低い天井を叩いた。
「民はいま怯えている。敵が去ったとはいえ、恐怖はまだ街路に残っている。明後日の追撃戦の士気を高めるためにも、指し示すべきものがある」
王がナナハルトを見た。暖炉の炎が、王の眼の奥で揺れている。
「この国を『ウィンターガルド聖王国』と名称を改め、従士団を、明日をもって『聖騎士団』に昇格する。前々から計画は進めていたが、今、希望のために時期を早めることを決断した」
ルキウスの背筋がわずかに動いた。ヘイルルーンの瞳が暖炉の光の中で細くなり、何かを計算するように一瞬だけ宙を見据えた。ハルグリムだけが表情を変えず、情報を処理するように一度だけ頷いた。
「ナナハルト」
王の碧眼が、真っ直ぐにこちらを射た。
「お前は今夜、この街を守った。光の管で城壁を覆い、敵を退けた。民はお前の名を呼んでいた。来る時に見ただろう、広場の人々が。寒さの中で立っていた人々が」
ロルフの荷車を引いてくる時に道の両側から向けられた顔が、暖炉の橙色の光の中に浮かんだ。「ありがとう」、「英雄殿、あんたのおかげだ」。紅い霧を作った手で荷車の柄を握っている自分に向けられた、あの感謝の言葉。
「お前は我々の英雄だ。聖騎士団の第一世代として名を連ねよ」
英雄。
その単語がナナハルトの胸に痛々しく響いた。紅い霧で三千人を消した少年が、英雄と呼ばれている。盾を取り上げられ、エリを保護すると言われ、北の山脈の向こうに調査団を送ると決められ、春という期限を刻まれて、その上に英雄という王冠が載せられようとしている。
「明日、大衆の前で発表を行う。だから今日は、汚れを落とし、温かい飯を食って、柔らかい寝台で休め。明日に備えろ」
限りなく優しい声だった。戦場から帰ったばかりの少年に、風呂と食事と睡眠を与えてくれる王の言葉。だがその優しさの内側で、退路が一つずつ音を立てて閉じていくのが聞こえていた。
明日、大衆の前に立てば、ナナハルトは聖騎士になる。王国の英雄になる。英雄はエリュシオンに逃げられない。英雄は失踪できない。英雄は、春の調査団の橋渡しを断れない。
ナナハルトは立ち上がろうとした。膝が一瞬だけ折れかけ、椅子の肘掛けを掴んで堪えた。誰も助け起こさなかった。暖炉の火が爆ぜ、火の粉が石壁に散って消えた。
「了解、です」
声が。自分の声が、自分の耳に遠かった。鼓膜の向こう側から聞こえてくるような、他人の声。
椅子の脚が石畳を引っ掻く音がした。王は上座から、ナナハルトの背中を見ていた。ハルグリムの視線が書類の上から一瞬だけ上がり、すぐに戻った。ディートリヒの羽根ペンが再び動き始め、カリカリという乾いた音が少年の背中を追った。
重い樫の扉に腫れた指で手をかけ、引いた。廊下の冷気が煤と焦げた匂いの残り香ごと顔を叩いた。扉が閉じる寸前、盾の弦に残っていた青白いエーテルの残滓が暖炉の光を拾って最後に一度だけ瞬くのが、視界の端を掠めた。
扉の向こう側に出た瞬間、両膝から力が抜けた。
咄嗟に石壁に手をついたが、冷たい石の感触が腫れた掌に食い込むだけで、ずり落ちる身体を支えきれない。背中が壁に滑り落ち、石畳の上に座り込んだ。視界が明滅している。暖炉の橙色が消え去り、松脂の灯りが等間隔で揺れる暗く長い通路だけが残されていた。扉の向こうでは、ディートリヒの羽根ペンの音がもう聞こえない。分厚い石壁が、あの詰所と廊下の間に完全な断絶を作っている。
英雄、保護、管理、共存、橋渡し、春――会議で投げつけられた言葉が、頭の奥で原型を留めないほどに砕けて散らばっている。論理を組み立てることも、まともに息を吸うこともできない。酸素を求めようとするたびに喉の奥が痙攣するように閉まり、ただ吐く時だけ、絶望に似た長い音が唇から漏れた。
ブローチに手が伸びた。内ポケットの中の冷たい金属を掴み出し、掌の中に握りしめる。鴉の翼の角が、弦で腫れた掌の皮膚に食い込んだ。
エリの名前を呼ぼうとした。声にならなかった。人を霧に変えた手と、英雄の手が同じ手であることの重さが、喉を塞いでいる。あの広場で倒れたエリの金色の瞳が光を失いかけていた記憶と、ルキウスが恍惚と語った「本物の奇跡」という言葉が、交互に頭蓋の内側を走った。
掌の中で、何かが震えた。
疲労で震えている手とは別の周期で、独立した微振動が金属を伝っている。
指を開いた。
暗い廊下の闇の中で、鴉の胸に嵌め込まれた赤い石が、三度、正確な間隔で光った。
はっきりと意思を持った、正確で理知的な間隔の信号だった。記録者が観測を再開した時の、あの冷静で穏やかなリズム。壊れかけた都市の底で、半壊した通信回路を繋ぎ直し、この暗い廊下まで信号を飛ばすために費やされたであろう時間の重さが、その正確さの中に凝縮されていた。クイル・コード・コーヴァスの通信信号だった。
赤い光が、暗い廊下の石壁を静かに染めた。
ナナハルトの目が見開かれた。指の間から漏れる光が、涙で歪んだ視界を赤く照らしている。涸れたはずだった。あの広場で全部出し尽くしたはずだった。なのに頬を伝う温かい筋が一本、顎の線を辿って落ちた。
生きている。きっと、エリは生きているはずだ。
ブローチを胸に押し当てた。鴉の翼の角が鎖骨の上に食い込んだが、離さなかった。冷たかった金属が、掌の体温を吸って、ほんの少しだけ温かくなっていた。
明日、大衆の前で白い服を着せられ、英雄と呼ばれる。その白は、今夜この廊下で流した涙の分だけ重い。
それでも、赤い光は点滅し続けている。聞こえている、と。
向かう場所は、まだ残っている。




