大人たちの理
ハルグリムの指が地図の等高線をなぞった。爪の先に残った煤とインクの黒い汚れが、羊皮紙の上を正確に滑っていく。
「盾が使えないなら、通常兵力で追撃する。兵は死ぬ。だが民が餓死するよりはましだ。それとは別に、この冬の先を見据えた恒久的な熱源の確保が要る」
指が止まった。視線が地図からナナハルトに移り、穏やかな口調のまま、その目だけが鷹のように据わった。
「君は以前、参謀室で浄水装置の設計を見せた時に『第二プラント』と言った。『師匠に何度も直させられた』とも言っていた。壊れた遺跡に師匠はいない。君が聖遺物の知識を得た場所には、技術を教える者がいて、水を管理する設備がある。そうだね?」
ナナハルトの心臓が跳ねた。あの日の何気ない失言が、参謀の記憶の中で既に論理の鎖に組み上げられていたのだ。一語一句が保管され、比較され、矛盾を炙り出すための道具として研磨されていた。
「……い、ます」
否定する嘘はつけなかった。嘘が苦手だった。昔からそうだった。声が裏返り、目が泳ぎ、挙動が不自然になる。だから事実だけを答えた。エリを含め管理者と呼ばれる者が都市の機能を維持していること。師匠とはエリ以外の管理者であること。声帯が引き攣り、言葉の継ぎ目で何度も息を呑みながら、それでも事実だけを口にした。
言葉にした瞬間、胸の底で何かが軋んだ。エリの秘密を、また一つ渡してしまった。だが「兵器ではない」と伝えなければ、彼らはエリを武器としてしか見ない。ナナハルトは必死に言葉を選んだ。
「あの子は……ただ、護ろうとしただけなんです。あの光は兵器じゃない。あそこにいる人たちは、水と光を守っているだけで、それに――」
喉が詰まった。目の奥が熱くなり、疲労で視界がぼやけて暖炉の橙色が滲んだ。
「あの子はもう動けないかもしれません。あの戦場で限界を超えて、壊れかけて……」
声が震えた。紅い霧のことも、エリが瓦礫の上に崩れ落ちたことも、クイルが無言のままエリを連れ去ったことも、掠れた声の振動の中に全部が滲んでいた。
暖炉の薪が崩れ、火の粉が石壁に散って消えた。ディートリヒの羽根ペンが止まり、静寂の中でインクの乾く微かな音だけが残った。
ルキウスが、組んでいた手を静かに解いた。
「私はあの日、本物の奇跡を見たのだ」
低い声だった。修道騎士の声帯が泥に汚れた法衣の奥で鳴らす、腹底からの響き。ルキウスの目には、先ほどまでの異端審問官の冷厳さとは異質な光が宿っていた。
誰も口を挟まなかった。ヘイルルーンの指がローブの袖口で止まり、ハルグリムの書類をめくる手が止まった。ソスヴァルド王は上座に戻って杯を傾けたまま、ルキウスの言葉を静かに聞いている。
「光の管が、一本、また一本と天に伸びていくのを見上げた。城壁を覆うほどの規模だった。あれは実に――美しかった。私は祈ることも忘れて、ただ見惚れていた」
ルキウスの声が、柔らかくなった。告解室で神に向かって囁くような、内省的な響きに変わっている。
「あのような尊い力を行使する存在を、君のような子供が一人で背負い込むべきではない」
ナナハルトの目が見開かれた。
「あの方は守られるべき存在だ。私もそう思う。だからこそ、我々大人が適切に保護するのだ。君が一人で苦しむ必要はない」
ルキウスはソスヴァルド王の方に目を向けた。
「陛下。我々とて彼女に悪いようにはしたくありません。ですよね」
ソスヴァルド王が小さく頷いて沈黙する。ルキウスの言葉を咀嚼し、自分の中で納得のする形に収めるための間のようだった。
ナナハルトの頭の中で、何かが擦れるように軋んだ。
違う。そういうことじゃない。
エリは保護されるような存在ではない。あの子はあの都市そのものであり、管理者であり、何百年もあの場所を守り続けてきた存在だった。保護が必要なのは人間の方で、エリは人間に保護される側ではない。
だがその言葉が喉まで迫り上がって、声にならなかった。「保護するな、エリは僕だけのものだ」と聞こえかねない。少年が奇跡を独り占めしようとしている、と。
ルキウスの善意に穴がなかった。悪意なら殴り返せる。計算なら論破できるかもしれない。だが泥に汚れた法衣のまま少年の心配をしてくれている男に、「黙れ」と返す力が喉に残っていなかった。
ハルグリムが地図に目を戻した。
「率直に言おう。君が持ち帰った浄水や暖房の技術、そしてあの盾に流れ込んだ力。その出所に、管理者がいる。師匠がいる。君が一人で引き出せた分だけで、この国はこれだけ変わった。ならば、その大元と直接話ができれば、何が可能になるか。私は、それを知りたい」
声は穏やかだった。だがナナハルトの膝の上の拳が、さらに強く握り込まれた。ハルグリムの口から出た「何が可能になるか」という言葉の射程が、暖炉の温もりと煤の匂いが混じった空気の中で、静かに、しかし確実に広がっていくのが分かった。この人はまだ何も分かっていない。あの場所が何であるかも、あの人たちが何を守っているかも。だからこそ、知りたがっている。知れば、この人は必ず最適な設計図を引く。それが参謀という生き物だった。
内ポケットの中で、ブローチが沈黙していた。冷たい金属が体温すら吸わずに沈んでいる。エリが生きているのか壊れたのか分からない。クイルからの応答がない。あの広場の瓦礫の上に崩れ落ちたエリの最後の姿が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。この人たちは、そのエリが今どうなっているかも知らないまま、あの場所の「可能性」を計算している。
「……」
ナナハルトは口を開くことが出来なかった。あの都市のことを一言でも話せば、この部屋の人間は明日にでも兵を動かすだろう。今のエリには、軍を受け入れる力がない。ルカが武装した人間に反応すれば、取り返しのつかない血が流れる。
上座で、椅子の肘掛けが低く鳴る。
ソスヴァルド王が立ち上がっていた。長机の脇を歩く軍靴が石畳を踏み鳴らす一歩ごとに、ハルグリムが構築した論理と数字の冷たい空気が圧し潰され、薄れていく。王はそのまま末席のナナハルトの前で足を止めると、ためらうことなく少年の椅子の前に片膝を落とした。
王が、臣下の前に。
ディートリヒの羽根ペンが一瞬止まった。ハルグリムの眉がわずかに上がり、ルキウスの背筋が微かに動いた。部屋の空気が、暖炉の炎すら息を潜めたかのように凝固した。
「ナナハルト」
それは戦場で兵士たちの先頭に立つ時の、飾りのない声だった。
「お前が大切にしているものを壊したいわけじゃない。取り上げたいわけでもない。だが俺には、今夜死にかけた兵たちの顔が見える。冬を越せずに死んでいく子供たちの顔が見える」
王の視線が、ナナハルトの手に落ちていた。弦の痺れが抜けず、拳を握ることもできない指。何千もの命を奪い、一人の友を救おうとした手を、この王は見ている。
「この三日……いや、これまでの全てで、お前がどれだけ戦ってきたか、俺は知っている。お前が盾を使いたくない気持ちは、分かるつもりだ。お前のその誠実さを、俺は信じたい」
ソスヴァルド王の大きな手が差し出された。
「だから教えてくれ。お前が落ちたという場所への道を。お前の口から教えてくれるなら、力ずくではやらない。お前が案内して、橋渡しをすればいい。話し合いから始められるはずだ」
一年以上をこの城で過ごして聴き慣れた、ソスヴァルド王の音の狂いが一つもない声。
ナナハルトの目の前がぼやけた。限界を超えた疲労で焦点が焼き切れている。暖炉の橙色が滲み、王の顔の輪郭が揺らいだ。
だが、今のエリに、軍は近づけさせられなかった。クイルとの通信が戻り、受け入れ態勢を整えるまでの時間が必要だ。嘘はつけない。だから、事実だけを言った。
「……父の、地図に」
声が掠れた。喉が乾ききっていて、最初の一語がまともな形をなさなかった。
「父が遺した地図に、聖遺物が埋まっている予測の場所が書いてありました。北の山脈の、稜線を越えた先に亀裂があって……そこから、落ちたんです。僕は」
事実だった。北の山脈の亀裂から落ちたのは事実だった。声に嘘の波形は混じっていない。ソスヴァルド王の碧眼が微かに揺れた。亡き父の地図という言葉の重さが、父を喪った少年の掠れた声と結びついて、王の中で別の意味を帯びたのだとナナハルトには分かった。
王都の傍にある正規ゲートのこと。あの場所が地下であること。馬で半日もかからない丘陵の裾野に口を開けているエレベータのこと。その全てを、ナナハルトは呑み込んだ。言わなかった。言えなかった。
「……お前の亡き父の地図か。辛いことを聞いたな」
王の手が、ナナハルトの肩に触れた。温かかった。嘘ではない事実を告げた直後の身体に、その温度がどこまでも深く沁みた。沁みるほどに、呑み込んだ秘密の重さが胃の底に溜まっていく。
ハルグリムが地図に目を落とした。指が山脈の等高線をなぞり、北へ滑っていく。
「なるほど。北の山脈の亀裂から……ということは、その先に、管理者たちのいる拠点があるわけだな」
ナナハルトは何も言わなかった。ハルグリムが自分の断片的な言葉を結びつけ、参謀の頭の中で論理を組み上げている。違う、とは言えなかった。言えば正規ゲートの存在を明かすことになる。
「ディートリヒ。王都から北方山脈の稜線までの行軍日数は」
「この時期の積雪を考慮して、馬で七日。歩兵の行軍なら十日以上です。冬季の稜線越えは凍傷と雪崩のリスクから、大規模部隊の通過は事実上不可能と判断します」
ディートリヒの声は正確だった。感情のない読み上げのような声で、その精確さがナナハルトの沈黙を裏側から補強していく。冬が、味方になっている。冬だけが。
ハルグリムは短く息を吐き、王に向き直った。
「陛下。調査団の派遣は春の雪解けを待つしかありません。それまでの間、例年どおりの冬季訓練に合わせて、ナナハルトの技術で聖遺物の効率化を進めて貰います。そして、雪解けと同時に北の山脈へ向かう。これが現状の最善手と考えます」
春――という響きが暖炉の熱気と焦げた煤の匂いに混じって、ナナハルトの胸に落ちた。
言わなかった事実が王都近郊のゲートを守り、軍が即座に動くことを防いだ。
だが、雪が溶ければ、ハルグリムの調査団は北の山脈に向かう。何も見つからなければ、参謀は別の可能性を洗い始める。
その日までに、通信を取り戻すか、どうにか地下都市に赴いてすべてを伝えて、何らかの対策を打たなければならない。




