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置かれた盾

 城門に隣接する従士団長の詰所は、野戦司令部と化していた。


 分厚い樫の扉が開け放たれ、泥と血の足跡が絶え間なく石畳を汚している。


 日が沈みかけの時刻だったが、松明が限界まで焚き増やされ、ランプも数多く置かれていた。熱気と暴力的な明るさが、汗と煤にまみれた石壁を舐め回している。


 伝令の兵士が息を切らせて駆け込むたびに、南区画の火災規模や負傷者の搬送状況を書きつけた紙片がディートリヒの長机に積み上がり、彼は血走った目で数字を拾っては羊皮紙に書き殴っていた。


 羽根ペンの先が紙を削るカリカリという乾いた音が続く。暖炉の橙色の光と松明の熱気すらも、開け放たれた扉から流れ込む冬の夜気と、兵士たちが運び込む焦げた空気と鉄錆の匂いに、端から食い潰されている。


 ソスヴァルド王は長机の上座で立ったまま地図を睨んでいた。金髪の生え際に灰色の煤がこびりつき、鎧の胸当ては外されているものの、鎖帷子の上に直接マントを羽織っており、戦場からまだ一歩も退いていないことが伺える。


 左のハルグリムが報告書の束を捌きながら、次々と部隊の再編と消火活動の優先順位を伝令に指示している。

 壁際ではルキウスが白い法衣の裾を泥で汚したまま、腕を組んで暖炉の脇に立っていた。

 ヘイルルーンはその隣で、負傷者の処置に必要な物資の一覧を手に兵士に指示を与えていた。彼女は先ほどナナハルトと別れて直行してきたのだろう。入ってきた彼を一瞥したが、無言のまま視線を羊皮紙に戻した。


 その喧騒の渦の底に、ナナハルトは立っていた。


 ハルグリムに治療院の階段から連れ出され、城門を潜り、この部屋の入口まで歩かされてきた。

 ヘイルルーンから渡されたサイズの合わない白いシャツがズボンの裾からずれているのに気が付き、慌てて直す。


 袖口から覗く手の指先は、硬い弦を力任せに弾き続けたせいで皮が剥け、赤く腫れ上がっていた。治療院の石鹸で血と泥は洗い落としたはずなのに、指の腹にはまだあの弦の暴力を振るった時のひどい痺れが残り、鼻腔の奥には戦場の焦げた臭いと、紅い霧が残したエーテルの甘ったるい残香がこびりついて剥がれない。


 長机の中央に、楯型変奏器(ヴィェラン・シールド)が仰向けに置かれていた。天井を向いた四本の弦の付け根には、エリの角の欠片で弾いた瞬間に焼きついた青白いエーテルの残滓が、まだ微かな明滅を保っている。その光が伝令の影に遮られて明滅するたびに、ナナハルトの指先が無意識に痙攣した。


 ハルグリムがナナハルトの姿を認めた。


「――下がれ」


 声量は抑えられていたが、石壁に反響して詰所の空気を一瞬で切り裂いた。伝令たちの足が止まり、視線が参謀に集まった。


「残る者以外、全員退出。扉を閉めろ」


 兵士たちが慌ただしく紙片を置いて退出していく。靴底が石畳を蹴る音が重なり、最後の一人が敷居を跨いだ瞬間、分厚い樫の扉が押し閉じられた。鉄の蝶番が軋み、重い衝撃音が石壁に吸い込まれた。


 先ほどまでの伝令の足音も、怒号も、遠くの消火活動の喧騒も、分厚い壁と扉に遮られて石の向こうに沈んだ。


 上座にソスヴァルド王、左にハルグリム、壁際にディートリヒ、暖炉の脇にヘイルルーン、長机の向かい側にルキウス。末席に座らされたナナハルトに、五つの視線が注がれていた。


 暖炉の熱が、扉が閉まったことで初めて部屋の空気を支配し始めていた。


 顔の表面だけが焼けるように熱いのに、シャツの下で冷えた汗が背中に張りついている。喉の奥が干上がり、掌にじっとりと冷たい汗が滲んだ。

 盾の弦に残った青白いエーテルの残滓が、暖炉の光を拾って微かに瞬いている。あの光を最後に見たのは戦場だった。


 エリの角の欠片をピック代わりにして弦を弾いた瞬間、光の管が空に展開し、数百の人体が紅い霧に変わった。あの振動がまだ指先に残っている気がして、ナナハルトは膝の上で拳を握った。痺れた指が震えている。洗い落としたはずの血の匂いが鼻腔の奥から蘇り、自分の手から発しているのか、それとも紅い霧に変わった人間たちの残り香が脳にこびりついているだけなのか、もう区別がつかなかった。


 ディートリヒが帳面に目を落とした。羽根ペンの先を一度だけ揺らし、数字の列に焦点を合わせる。


「被害報告を申し上げます。南区画の食料庫が二棟焼失。略奪を含め、冬季備蓄のおよそ四割が失われました。現在の消耗率から推計して、春までに王都人口の二割から三割――主に下層の民と戦災孤児が飢餓の危機に晒されます」


 数字が、暖炉の薪の爆ぜる音の間に落ちた。十人のうち二人か三人が春を迎えられない。ナナハルトの頭はその数字を処理しようとしたが、ロルフの不規則な呼吸音の記憶と、内ポケットに沈んだブローチの沈黙が思考の輪郭を侵食していく。ブローチは治療院を出てからずっと応答がない。赤い石の明滅すら弱まっている。エリが生きているのか壊れたのか、クイルが無事なのかも分からないまま、この石壁に囲まれた部屋で大人たちの計算を聞かされている。


 ハルグリムが報告書から目を上げた。


「南のグランツ残存部隊を、雪が街道を塞ぐ前に追撃し、備蓄を奪還する必要がある」


 指が長机の上の盾を示した。爪の先に、地図のインクと煤の混じった黒い汚れがこびりついている。


「ナナハルト。この盾を使えば、追撃戦は一方的に終わる。味方の損耗はゼロだ。使い方を教えてくれ」


 青白い残滓が、暖炉の光の中で瞬いた。あの戦場の光景が視界の裏側を走った。弦を弾いた瞬間の振動。光の管が空に咲いた音。紅い霧。人の形が崩れていく速さ。肺の中にまだ残っている、あの広場の焦げた空気の味。


「あれは……あの時だけの力です」


 声が掠れた。喉の奥が痙攣するように閉じ、言葉が喉と唇の間で何度もつっかえた。


「あの盾だけじゃ、あんな力は出ない。エリが……あの子が、僕の盾に力を流してくれたから、あれが出来たんです。だからエリも限界を超えて、動けなくなった。僕一人じゃ、あの盾はただの盾です」


 ハルグリムの指が盾の弦の上で止まった。目が細くなり、瞳の奥で何かが素早く計算されていく気配がした。


「つまり、単体では再現不能ということかい」


「それに――」


 ナナハルトの視線が再び自分の手に落ちた。血は洗い落としたはずなのに、三千人を霧に変えた瞬間の振動の記憶が指の腹から腕を伝い、肩までせり上がってきて、全身が細かく痙攣するように揺れた。


「あんな力は、人の力じゃない。人が、霧に……」


 呼吸が崩れた。吸おうとして喉が閉じ、吐こうとして肺が詰まる。椅子の肘掛けを掴んでいた指が滑り、身体が前のめりに傾いだ。膝の上に額を押しつけるように崩れ落ち、背中が丸まった。肩が上下するだけで空気がまともに通らない。暖炉の熱が頭皮の上を滑っているのに、身体の内側がどんどん冷えていく。石壁に囲まれた密室の空気が、急速に薄くなっていくような錯覚に捕らわれた。


 椅子の軋む音が石壁に響いた。上座で、何かが動いた気配。


「ナナハルト」


 穏やかな声が、頭の上から降ってきた。ソスヴァルド王が席を立ち、ナナハルトの椅子の横に片膝を突いていた。煤の混じった金髪が暖炉の光に橙色に透け、大きな手が少年の背中に触れた。剣ダコのある掌が、震える肩甲骨の上に乗る。その掌にはまだ鎖帷子を握りしめていた時の熱が残っていて、過呼吸で冷え切った少年の背に、人の体温が沁みるように伝わった。


「そうだな。お前の様子を見れば分かる。あの力はお前が望んで作ったものではない」


 過呼吸で背中を震わせている少年の身体に、ただ手の温度だけを伝えている。


「あの戦場で、守るために必死だったのだろう。お前はそういう人間だ」


 ナナハルトの呼吸が、少しだけほどけた。王の手の温度が肩から沁みて、引き攣った横隔膜の痙攣をほんのわずかだけ緩めていた。


 王は背後を振り返った。


「ハルグリム。無理を言うな。使えないものを使えとは言わない」


 ハルグリムは一瞬だけナナハルトの丸まった背中を見て、すぐに表情を戻した。短く息を吐き、盾の弦に載せかけていた指を離す。


「了解です、陛下」


 声は穏やかだった。王の制止を受け入れる素振りに不満の翳りはなかった。ただ、盾から手を離したその同じ動作の中で、次の書類に手が伸びている。ナナハルトの崩壊は、この参謀の頭の中で『使用不可』という一項目に分類され、既に次の計算に組み込まれていくようだった。

 盾は長机の上に残されたまま、誰の手にも返されなかった。

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