沈黙の鴉
ロルフの呼吸が安定してきた頃、ナナハルトは特別室を出た。
治療院の回廊は松脂の灯りが半分以上消え、影が石壁を黒く塗り潰していた。呻き声は減っていた。減った分だけ、助からなかった者がいたということだった。
ナナハルトは中庭に通じる階段の踊り場に腰を下ろした。壁にもたれ、目を閉じた。全身が重い。腕が痛い。ロルフを背負って走った時に引きつった筋肉が、今になって抗議している。
だが身体の痛みよりも、胸の奥の空洞のほうがずっと深かった。
ロルフの回復はただ祈るしかない。父が冷たい身体で戻ってきたことを思いだしてぞっと心を震わせたが、やれる事はやったのだ。
そして、今、ナナハルトの心を占めているのはエリのことだった。
広場で倒れたエリの姿が、瞼の裏に焼きついて消えなかった。金色の瞳が光を失いかけていたこと。欠けた角が冬の光を最後に反射したこと。クイルが何も言わずに連れ去ったこと。
ナナハルトはズボンのポケットに手を入れた。
指先が真鍮の留め具に触れた。着替えた時にこれはずっと持っていないとと急いで入れていたのだ。
それは、鴉をかたどった小さなブローチだった。翼を広げた鴉の胸に、赤い石が一つ嵌め込まれているクイルから預かった通信装置。今はただ沈黙している。
ナナハルトはブローチを握りしめた。
「エリ」
声は低く、掠れていた。踊り場の石壁に吸い込まれる。
「エリ、聞こえるか。無事なのか。クイルが連れていってくれたんだよな。大丈夫なんだよな」
ブローチはただ冷たく応答はない。
「クイル。クイル、聞こえるか。お願いだから、返事をしてくれ」
沈黙。
「王様から呼び出されると思う。エリの力のことや盾のことは必ず聞かれる。何て言えばいい。どこまで話していいんだ。クイル、エリ、誰か――」
声が詰まった。喉の奥が締まり、言葉が音にならなかった。もう会えないかもしれないと思うと、呼吸が苦しくなり、心臓が痛みを覚えた。
ブローチの赤い石は、何も答えなかった。
あの戦場で、最後に聞こえたクイルの声が耳の奥で砕けた瞬間を思い出した。通信が焼き切れたのか。それともエリの過負荷が都市全体の通信機能を停止させたのか。あるいはクイルが意図的に遮断したのか。理由は分からない。
ナナハルトはブローチをポケットの中に戻した。
手の甲で目元を拭った。泣いてはいなかった。涙はとうに枯れていた。あの広場で全部出し尽くしていた。代わりに残っているのは、乾いた喉と、重い胸の痛みだけだった。
階段の下で足音がした。
硬い靴底が石段を一段ずつ正確に踏む音。急いではいない。だが迷いもない。用件が決まっている者の足音だった。
ハルグリムが、踊り場に姿を現した。参謀のハルグリムが直接ナナハルトを呼びにくるなどもう、予測どおりの要件だろう。
彼は、ナナハルトを一瞥し、身の丈に合わない借り物の白いシャツに目を留めた。
「ご苦労だった。英雄殿」
石壁のように平坦で事務的な響きがする声に、ナナハルトは冷や汗が出るのを感じた。
「陛下がお待ちだよ。着替える時間は、残念ながらないようだ」
ナナハルトは立ち上がろうとして、膝が笑いそうになったが、壁に手をついて堪えた。
「……今、ですか」
「戦の直後で疲れているのは分かっている。だが陛下も、今夜は眠れないだろうからね」
ハルグリムの声は、いつも通りの気さくだった。だがその気さくさの奥に、拒否を許さない硬質なものが混じっている。
ヘイルルーンに渡された白いシャツは清潔だった。しかし、サイズの合わない服はお世辞にも似合っているとは言えず、王の従士としてふさわしい格好ではない。血と泥にまみれた革鎧を脱いだ今の姿は、ただの村の少年に見えただろう。これで王の前に立つのか。
ハルグリムは何も言わなかった。ただ階段を降り始め、ナナハルトがついてくることを当然のように歩き出した。
ナナハルトはもう一度だけ、ポケットのブローチに触れた。その冷たさが今ただひとつの頼りだったから。




