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ひとつの生きる術

 夜が深まっていた。


 治療院の遠くから、まだ呻き声が聞こえている。時折、叫び声が混じった。手遅れだった者の最後の声と、祈祷師が唱える魂送りの祈りが交互に壁を伝ってくる。


 ヘイルルーンは手を洗っていた。


 たらいの水が赤く染まり、彼女は何度も水を替えた。指の一本一本を丁寧に洗い、爪の間に入り込んだ血を掻き出すように擦っている。蒸留酒を手に垂らし、両手を擦り合わせ、また水で流す。その動作を三度繰り返した。


 ロルフ以外もこの人は人を救ってきた。ナナハルトはその間、ただロルフを見ているだけだった。


 ナナハルトはロルフの脈を確かめながら、その背中を見ていた。結い上げた茶色い髪から数本が零れ落ち、白い首筋に張りついている。

 今、ナナハルトにとってヘイルルーンはただの参謀室の助言者の女、という域をとっくに超えていた。


「……ありがとうございます。ロルフを、助けてくれて」


 ヘイルルーンは振り向かなかった。手を拭く布を探すように棚に手を伸ばし、目当てのものが見つからないのか、濡れた指先で前掛けの端を掴んだ。


「助けたかどうかは、朝になれば分かるわ」


「でも、軍医には断られた。あなたがいなかったら」


「軍医の判断は間違っていないの。限られた人手と道具で、助かる見込みの高い者から処置するのは合理的よ。私がやったのは、合理を外れた選択」


 声が低く、かすかに濡れていた。目がたらいの赤い水面を見つめている。


 ナナハルトは黙った。何か言葉を探していたが、見つからなかった。代わりに口をついて出たのは、ずっと胸に引っかかっていた問いだった。


「ヘイルルーンさんは、どうしてこんなに詳しいんですか。傷の縫い方とか、蒸留酒で洗うとか。軍医も祈祷師もやらないことを」


 ヘイルルーンの手が止まった。


 しばらく誰も口を開かなかった。下の階で、また一人分の叫び声が途切れた。魂送りの祈りが始まる。単調な旋律が石壁を伝い、この特別室にまで微かに届いていた。


「……知っていたからよ。水と石鹸と、布を焼く火。それだけあれば、傷口は腐らない。エリュシオンでは誰もが知っていたこと。子供でも知っていた」


 エリュシオン。


 以前に修道院でヘイルルーンは「地下都市エリュシオン。私はあの場所で生まれて、育って、追い出された」そう言っていた。彼女は間違いなくエリュシオンの元住民だった。


「でも地上には、それがなかった」


 ヘイルルーンはたらいの水を変えず、赤い水面を見つめたまま続けた。


「エリュシオンを出て、最初に私を拾ってくれた人がいたの。行商の老人で、凍えて飢えている私に毛布と干し肉をくれた。それから数カ月荷馬車一緒に旅をした。地下都市と全く違う世界。全く異なる生活。彼は孫娘のように接してくれた」


 声は平坦だった。感情を排した、事実の報告のような口調。だがその平坦さが、かえって言葉の奥にある重さを際立たせていた。


「あるとき、彼の手の甲に小さな擦り傷があるのに気づいたの。荷を下ろす時にできた傷。大したものではなかった。地下なら、水で洗って清潔な布で巻くだけで済むもの」


 ヘイルルーンはたらいから手を引き抜き、濡れた指先を自分の手の甲に当てた。


「でも私は何もしなかった。傷がどう化膿するか知らなかったから。化膿した傷口をそのままにしていたら腐っていくなんて想像もしなかった」


 ナナハルトの胸が冷たくなった。結末が見えた。見えたが、口を挟めなかった。


「七日目に、手が腫れ上がった。十日目に、腕全体が赤黒く変色した。熱が出て、意識が朦朧として、私の名前を呼ぶ力もなくなった」


 ヘイルルーンの声が、ほんの僅かだけ揺れた。それは震えとも、怒りとも、悔恨ともつかない揺れ方だった。


「死んだの。ただの擦り傷で。水と、石鹸と、布を火に通す。それだけの知識があれば助けられた命が、私の無知のせいで消えた」


 ナナハルトは何も言えなかった。ロルフのまだ時折乱れる苦しそうな息に意識を集中させながら、それでもヘイルルーンの声だけは聞こえていた。


「それからよ。私が地上で生き延びるために覚えたのは、剣でも祈りでもなかった。水を煮沸すること。傷を酒で洗うこと。汚れた布は捨てて、清潔な布だけを使うこと。エリュシオンでは与えられるのが当たり前すぎて、誰も意識しなかったことを必死で思い出して再現した」


 ヘイルルーンはたらいの水を捨てた。赤い水が床の排水溝に流れていく。彼女は新しい水を汲み、また手を洗い始めた。


「あの都市の知識を、全部引きずり出したいの。一つ残らず。あの老人のような人が、二度と馬鹿な理由で死なないように」


 ナナハルトは、この時初めて理解した。


 ヘイルルーンが「神の奇跡」と偽ってまで衛生管理や栄養のある飲料を広めている理由。孤児院で子供たちの手を洗わせ、水を煮沸させ、布を焼いて使わせている理由。それは策略でも野心でもなく、もっと深い場所から湧き出る渇きだった。


「……僕にできることがあったら、言ってください」


 ヘイルルーンは振り向いて、ナナハルトを見た。充血した目の中に、一瞬だけ、何か別の光が混じった。


 一人の恩人の死が、この女をここまで駆り立てている。この人は悪い人ではない。


「なんて顔をしているのよ。修道院では聖女と言われていたけれど、聖女のつもりはないわ。そう名乗ったこともない。私はその認識を利用しているだけ。王に近づいたのも、権力者に私の知識を有利に利用するため。搾取されないためよ。だから、私を善人だとは思わないで。皆にずるく小賢しい女と言われるのには慣れてる。同情もいらない」


「それでも僕は、あなたの行いは正しいと思います」


 ヘイルルーンは、一度目を逸らし、それから一度だけ天を仰いだ。何かに耐えているような表情をする。

 彼女はロルフの手をとって脈をとりはじめた。しばらくしてから頷く。大丈夫だ、ということだ。


「あなた、身内を亡くしたことがある?」


 ヘイルルーンの声の調子が変わっていた。先ほどまでの突き放すような棘は消え、ただ問うている声だった。


「はい。父が……戦に徴兵されて、帰ってきませんでした」


「そう。この国はまだ、そういう事が多いわね」


 唇の端だけでかすかに笑った。その笑みは冷たくはなかった。ただ、疲れていた。


 ヘイルルーンは使った器具を棚に戻し始めた。沈黙が落ちかけた時、ナナハルトは口を開いた。


「……地下のこと、参謀の皆さんには話していますか」


 ヘイルルーンの手が止まった。


「まだよ。私の知識をいつ、どう切り出すかは私が決めるわ。それが、私がここで生き残る術だから」


 振り向いた目は、先ほどの疲れた笑みとは別のものを帯びていた。


「もし今後、王やハルグリム殿に聞かれて、あなたが何かを答えるなら――それはあなたの判断。あなたの責任よ」


 それだけ言って、ヘイルルーンは部屋を出ていった。

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