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血に塗れた救済

 車輪が石畳の継ぎ目を踏むたびに、がたがたと鳴った。


 野菜を運ぶためのリヤカーは車軸が歪んでいて、王都の硬い石畳を走るようには作られていなかった。振動が荷台に伝わり、ロルフの背中に刺さったままの矢が微かに揺れる。揺れるたびに、黒い血が車輪の隙間から石畳に点々と落ちた。二人が通った後には、暗い斑点の列が冬の道に残されていく。


 ナナハルトが前を引き、アデルベルトが後ろを押していた。


 広場から治療院までの道は、それほど遠くないはずだった。だが、一刻も早くと気が焦る。車輪がまた跳ねた。ロルフの唇から微かな呻きが漏れ、ナナハルトの胃が裏返りそうだ。


 崩れた家の前で立ち尽くしていた女が、深く頭を下げた。


「ナナハルト卿。ありがとうございます」


 壁際で止血の布を巻いていた兵士が顔を上げた。


「英雄殿、あんたのおかげだ」


 紅い霧を作った手で荷車の柄を握っている自分に、向けられる言葉ではなかった。車輪が段差を越えるたびにロルフの呻きが漏れているのに、誰もそれに気づかない。


「感謝、されてんな。お前、頑張ったもんな」


 荷車を押しながらアデルベルトが茶化すように言った。


「僕は……英雄なんかじゃ、ない。ロルフさんも助けられなかった。あんな……あんなことになるつもりはなかった。人が……霧に」


 アデルベルトは、チッと、舌を打った。ナナハルトを非難するというよりは自身の発言が失態だったと反省するような、そういう響きだ。


「お前がやったこと、見てた。何がどうなったかは知らねえ。でもお前はこいつを助けようとしたし、妹を守ったんだろ。それだけ分かりゃ十分だ」


 ナナハルトは何も言えなかった。車輪が石畳を叩く音だけが、冬の空気に響いた。それ以上、アデルベルトも何も言わず、ただひたすら荷車の後ろを押した。額の血は乾いて茶色い筋になっていたが、拭おうともしない。


 治療院の入口で、アデルベルトは荷車から手を放した。


「俺は広場に戻る。終わったら来いよ」


 赤毛の背中が角を曲がって消えた。



 治療院の入口を潜った瞬間、臭気が鼻腔を塞いだ。


 血と膿と、排泄物の混じった獣脂の煙。松脂の灯りが低い天井を黄色く焼き、その下に人が転がっていた。回廊から庭に至るまで、石畳の上に藁の敷布が並べられ、一枚ごとに人間が横たわっている。手前の男は腹を押さえた手の隙間は地に溢れ、その隣の兵士は顔の半分を布で覆われていたが、布の下から覗く顎は不自然な角度だ。


 足元が滑った。石畳の継ぎ目に溜まった血が、靴底の感触を奪っている。


 奥の壁際で、祈祷師が膝をつき、動かなくなった兵士の額に油を塗っていた。唇が魂送りの祈りを刻んでいる。その声が途切れないまま、隣の藁敷布では軍医が焼き鏝を傷口に押し当て、焦げた肉の匂いが松脂の煙に混じって天井に籠った。鏝を当てられた兵士の喉から裂けたような絶叫が噴き出し、低い天井に撥ねて頭蓋の内側を叩いた。祈祷の声と絶叫が交互に石壁を這い、どちらが生者でどちらが死者の声なのか、聞き分けられなかった。



 ナナハルトは手押し車を回廊の入口まで押し込んだ。荷台のロルフは蝋のように白かった。呼吸は続いているが、不規則で浅い。矢が刺さったままの背中から血が滲み出している。


「どいてくれ。通してくれ!」


 ナナハルトの声は自分でも聞いたことがないほど掠れていた。喉の筋肉が引きつり、声帯が正常に振動していない。叫んでいるつもりなのに、出てくるのは割れた笛のような音だった。


 回廊の奥で、軍医が顔を上げた。血に濡れた手を止め、ナナハルトの背中の荷物を一瞥し、そして首を横に振った。


「そいつは後だ。腹を裂かれた兵士が五人待っている」


「後じゃ駄目なんです。ロルフは――」


「見れば分かる。矢が刺さったままだ。下手に抜けば出血が止まらない。ここまで血が出ていたら、手を出しても無駄が多い。寝かせておいて、朝まで息があるなら」


 朝まで。


 その言葉の意味をナナハルトの脳が処理するのに数秒かかった。数秒の間に、背中のロルフの呼吸がまた一つ浅くなった気がした。


「……この子は、後回しではないわね」


 凛とした声が、喧騒の中から響いた。


 振り返ると、茶色い髪を完璧に結い上げた女が立っていた。ヘイルルーンだった。

 戦場には似つかわしくない、清潔に糊付けされた真っ白なエプロンを身につけ、両手には布の束と消毒用の小瓶が詰まった籠を抱えている。彼女の顔には汗も血も付いていない。ヘイルルーンはロルフに近づくと、冷徹な医者のように矢と傷口を確認した。


「肩甲骨の下に深く刺さっているわね。このままではもたない。軍医あなたが診ないなら、私がやるわ」


「助言者殿。しかし、ここは軍の管轄で――」


「傷を放置して死なせるのが軍の管轄? 邪魔よ。そこをどきなさい」


 ヘイルルーンは軍医を一瞥(いちべつ)で黙らせると、ナナハルトに向き直った。


「ついてきなさい。上官用の特別室よ。そこなら必要なものが揃っている」


「そこは、王の命令がなければ使えません」


「その部屋を作ったのは私。だから文句ないでしょう」


 まだ続ける軍医をヘイルルーンは睨みつけた。軍医も自分の責任になっては困る、とそそくさと逃げ出す。


 促されるまま、ナナハルトは彼女の背中を追った。回廊を奥へ進み、特別に設えられた扉が開かれる。


 扉の向こうは、別の空気だった。壁際の棚に硝子の瓶が並んでいる。琥珀色の液体、白い粉末、乾燥した薬草の束。瓶と瓶の間隔が寸分違わず揃い、ラベルの向きが全て正面を向いている。床板の木目に染みひとつなく、部屋の中央には清潔な布で覆われた木の台が置かれていた。


「そこにうつ伏せに寝かせなさい。肩の傷が上に来るように」


 ナナハルトがロルフを台の上に横たえると、ヘイルルーンは既に動いていた。

 手早く部屋の隅の小さな炉に鍋を載せて湯を沸かす。


「手を洗って、今すぐ」


 言われるがままに、水桶の脇に置かれた石鹸を手に取った。泡立てた瞬間、ハッカと薬草の匂いが鼻腔を打った。


 知っている香りだった。


 ディートリヒから漂っていた、微かな清潔さ。血と鉄錆の匂いを消すように纏っていた、あれと同じ香り。ヘイルルーンが調合したものだったのだろう。石鹸は、地下都市の純度にはとうてい及ばない。だが、薬草を煮詰めて固めた実用的な石鹸の匂いが、狂乱と血と焦げた肉の記憶に塗り潰されていたナナハルトの脳を、ほんの僅かだけ日常の側へ引き戻した。


 手の震えが、少しだけ収まった。


 ぶわりと広がる血痕の色に、自身の手が血まみれだったことを思い出させられて憂鬱になった。だが石鹸の匂いがある限り、洗い続けることはできた。


 ヘイルルーンは棚からシャツとズボンを取り出し、ナナハルトに投げてよこした。


「鍋の湯が沸くまでに着替えなさい。そんな汚れだらけの格好で患者に触るものではないわ。着替えたら横の棚にある白い布を全部取って。沸いた湯の中に入れなさい。素手ではなく、あの木の箸を使って」


 自身の服を見下ろすとたしかにひどい格好だった。革鎧が血と吐瀉物と泥で汚れている。


 ナナハルトが着替える間に、ヘイルルーンはロルフの上着を脱がせ、シャツを破って患部を露出させた。矢は肩甲骨の下に深く刺さり、布と革の破片が傷口の縁にこびりついている。ヘイルルーンは顔をしかめるでもなく、矢の角度と深さを黙って検分した。


「こっちに来なさい。押さえて」


 ナナハルトがロルフの両肩を押さえると、ヘイルルーンは矢の柄を左手で掴み、右手でロルフの背中を固定した。


 バキッ、と乾いた音が響いた。矢の柄を途中で力ずくでへし折ったのだ。残った短い柄と矢じりを、ヘイルルーンは素手で握り直した。


「いい? 次は抜くから、しっかり離さないのよ」


 ヘイルルーンは、矢じりが肉を裂かない角度を見極めるように一瞬だけ手首を傾け、そして一息に引き抜いた。


 どす黒い血が噴き出した。


 ロルフの口から、意識のない身体が絞り出した悲鳴のような呼気が漏れた。背中が跳ね、ナナハルトの手の下で筋肉が痙攣した。鉄錆の匂いが部屋を満たし、木の台の上に黒い血溜まりが広がっていく。


 ヘイルルーンは抜いた矢を捨てると、すぐにピンセットを手に取った。傷口に残った木片と布の破片を一つずつ摘み出していく。その指は一度も震えなかった。



「どうにかなりそうね」


 棚から琥珀色の瓶を取り下ろす。栓を抜いた瞬間、強烈な酒精の匂いが特別室を満たした。鼻の奥が焼けるような、純粋なアルコールの刺激。蒸留酒だ。


「お湯と布、早く」


 ナナハルトは急いで布が入った湯をヘイルルーンの元に運ぶ。


 ヘイルルーンはロルフの傷口に蒸留酒を流しかけた。ロルフの身体がびくりと跳ねた。意識はないはずなのに、アルコールが生きた肉に触れた刺激が神経を直接叩いている。


「押さえなさい。動くと縫えない」


 ナナハルトはロルフの肩を両手で押さえた。友人の肌は冷たく、筋肉の弾力が失われかけている。押さえているのか、しがみついているのか、自分でも分からなかった。


 ヘイルルーンの手が動いた。


 熱湯から引き上げた細い針と、何かの動物の腸から作った糸。彼女の指は震えていなかった。傷口の縁を蒸留酒で拭い、裂けた肉の層を指で正確に合わせ、一針ずつ縫い合わせていく。その手際は祈祷師の祈りとも軍医の荒っぽい処置とも異なっていた。指は一度も止まらなかった。


 一針ごとに、ロルフの身体が微かに震えた。その震えがまだ生きているという唯一の証拠で、ナナハルトはその振動を手のひらで受け止め続けた。


「布を替えなさい。泣いてる暇があったら手を動かして。次の布。早く」


 泣いていたのか。頬に手を当てる余裕はなかった。言われるままに湯から布を取り出し、絞り、ヘイルルーンに渡した。彼女はそれで傷口の周囲を拭き、新たに蒸留酒を垂らし、また縫った。


 時間の感覚が消えた。


 松脂の灯りが揺れ、影が壁を這い、ロルフの呼吸が浅くなったり深くなったりするたびに、ナナハルトの心臓も同期するように拍を乱した。ヘイルルーンだけが一定のリズムで手を動かし続けている。


 最後の一針を結んだ時、ヘイルルーンの額に汗が浮いていた。髪の生え際から汗が一筋、頬を伝って顎先に溜まり、落ちた。


「止血は終わったわ。傷が腐らなければ、朝を越えられる」


 傷が腐ること。軍医たちが『神の怒り』と呼ぶもの。だがヘイルルーンは神を持ち出さなかった。


「蒸留酒で傷を洗い続けなさい。二刻おきに布を替えて、前の布は捨てること。汚れた布を戻すのは殺すのと同じよ。さあ、私は次があるからあとは任せるわ」


 ヘイルルーンは早口で告げると、部屋を出ていった。彼女が助ける命は、まだ多くある。怪我人はロルフだけではないのだ。きっとあの軍医に文句を言われながらも、こうやって粛々と手入れをするのだ。


 強張っていた肩から、力が抜けた。呼吸が一つだけ深くなる。この状況で彼女は嘘を言わない。傷が腐らなければ、と言った。条件を満たせばロルフは生きられる。祈りではなく、知識と手順で。それだけが、ナナハルトの指から震えを引き剥がした。



 ナナハルトは台の横にへたり込んだ。膝の力が抜け、背中が壁にぶつかった。ロルフの手を握る。冷たかったが、脈が指先に伝わっていた。弱いが、確かな脈だった。

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