表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

71/96

英雄と女神

 ナナハルトはブランドの腕にただ支えられ、立っているだけだった。


 リーゼルが泣き腫らした目で、ブランドの服の裾を小さな拳で握りしめていた。大男の膝の横に立って、兄の顔を見上げている。


 歓声が遠かった。王の号令も、騎士たちの叫びも、住民の感謝の声も、すべてが水の底に沈んだように輪郭を失っている。耳鳴りがまだ鳴っていた。歓声は聞こえていたが意味を持たない。ただ、音として鼓膜を打つだけで、言葉として脳に届かなかった。


 視界が明滅していた。歓声の向こう側で、見たくないものだけが鮮明に映る。


 横に倒れているロルフの、亜麻色の髪が血に濡れて額に張りついていた。目を閉じている。だがまだ手が動いているのに気がついた。指先が石畳を引っ掻くように痙攣している。手が動いているということは、まだ処置する意味があるということだ。死んではいない。まだ。


 目を逸らした先に、エリがいた。空中にいたはずのエリが、広場の中央に立っていた。上空の光の管が一本ずつ消え始めていた。空に広がっていた透明な管の群れが、上から順に、音もなく溶けるようにして消滅していく。最後の一本が消えた瞬間、エリの身体が傾いた。ゆっくりと、糸の切れた操り人形のように。膝が折れ、深緑のワンピースの裾が石畳に円を描いて広がった。


 倒れたエリの目は半開きで、焦点が合っていなかった。欠けた角が露出したまま、黒い髪が石畳に散って、紅い霧の沈殿物に触れている。パイプオルガンを展開した代償が、今、彼女のシステムの核を内側から焼いている。都市の管理者が、管理領域の外で全機能を展開した対価。


 胸元で、ブローチが高熱を伴う明滅を繰り返していた。あの包囲の最中に胸を灼いた熱の残滓だった。革鎧の内側に留めた、鴉をかたどった小さな留め具が、赤い光を点滅させ続けている。先ほど耳の奥で砕けたクイルの声は、もう届かなかった。通信経路が焼き切れたのか、声を届けるだけでは足りないと判断したのか。管理者のシステム危機を知らせる警告だけが、機械的に点滅を繰り返していた。


 その信号に応えるように、空から影が降りてきた。


 一羽の鴉が、紅い霧が晴れ始めた冬の空から、音もなく広場に舞い降りた。人間の腕を広げたほどもある大きな黒い翼が広がり、石畳の上に着地した瞬間、鴉の輪郭が崩れ始めた。黒い羽毛が液体のように融合し、輪郭が引き伸ばされ、鴉の体躯が人間大のシルエットへと膨張していく。変態は一瞬だった。目が追いついた時には、もう終わっていた。


 石畳の上に、痩せた長身の男が立っていた。鴉の仮面で片目を覆い、黒いコートの裾が紅い霧の残滓を掃いている。鴉のように鋭い目が倒れたエリを見下ろしていた。表情は無かった。


 第一柱。クイル・コード・コーヴァス。


 クイルは何も言わなかった。倒れたエリの傍に膝をつき、片腕を彼女の背中に差し入れ、もう片方の腕を膝の下に通した。軽々と、だが壊れものを扱うような慎重さで、エリの身体を抱え上げた。深緑のワンピースの裾が石畳から離れ、欠けた角の先端が空気を切った。


 ナナハルトの目とクイルの目が合った。


 仮面の奥の顔がこちらを向いた。何かを言おうとしているように見えた。その表情の奥にあるものを、ナナハルトは読み取れなかった。だが結局、第一柱は何も言わなかった。ただブローチの方を一度だけ見て、それから踵を返した。


 エリを抱えたクイルの身体が、再び歪み始めた。コートが羽毛に変わり、腕が翼に変わり、人間の輪郭が鴉のシルエットに収束していく。抱えたエリの身体ごと、黒い翼が包み込んだ。


 巨大な鴉が石畳を蹴った。翼が広がり、紅い霧の残りを切り裂いて空に浮かんだ。エリの深緑のワンピースの裾が風に翻り、欠けた角の先端が冬の光を最後に一度だけ反射した。


 鴉は北へ飛んだ。王都の屋根を越え、城壁を越え、そのまま一直線に北の山脈の方角へ。エリュシオンへ。地下の暗がりへ。


 ナナハルトの手が伸びかけて、止まった。


 歓声がまだ続いていた。「英雄!」「女神!」と叫ぶ声が紅い霧の沈殿物を踏みながら広場を揺らしている。ソスヴァルド王が高らかに勝利を宣言し、騎士たちが拳を天に突き上げている。住民が涙を流し、子供を抱きしめ、神に感謝の祈りを捧げている。その全てが、紅い霧の上で行われている。この霧が何であるかを知りながら。


 その歓喜の渦の中心で、ナナハルトだけが取り残されていた。


 血まみれの手を膝の上に置いたまま、石畳に座り込んでいた。右手にはまだ弦を弾いた時の振動が残っている。護るための最初の一音と、数百の命を消した最後の一音を、同じ指が同じ旋律の中で紡いだ。護るための盾と、殺すための弦が、同じ道具の中に同居している。


 ロルフが教会の壁際で血を流している。エリが鴉に連れ去られた。ブローチが赤い警告を続けている。


 勝利の叫びの中で、ナナハルトの周りだけが、静かだった。


 鐘楼の鐘が鳴った。誰かが勝利を祝って縄を引いたのだろう。澄んだ金属音が冬の空に響き渡り、街の隅々にまで広がっていった。


 美しい鐘の音だった。だがナナハルトの耳には、さっき自分が弾いた音の残響と、その鐘の音の区別がつかなかった。祝福の鐘と、人を砕いた弦が、同じ響きで鼓膜を打っている。その事実が、胃の奥をもう一度きつく絞り上げた。


 真新しい革鎧がもう元の色をしていなかった。ロルフの血と、紅い霧の沈殿物と、自分の嘔吐の跡が入り混じった染みが、胸元から裾まで広がっている。数日前に支給されたばかりの装備が、二度の戦場を経て、ひどい臭いを放つ血まみれの皮になっていた。


「兄ちゃん……」


 妹の声で我に帰った。呆然としていても、何も変わらない。今やるべきことがある。ナナハルトは妹の頭を撫でようとして、手が血で汚れていることに気づいた。服の裾で指を拭い、それから妹の髪に触れた。


「大丈夫だ。よく頑張ったな。兄ちゃんの仲間が、面倒を見てくれる。ブランドさん、妹を誰かに家まで送ってもらうように言ってください」


 ナナハルトはロルフの傍に膝をついた。服の裾を両手で裂き、布片を矢の周囲に巻いて圧迫した。血が滲み、布が赤く染まっていく。矢は抜かなかった。抜けば出血が止まらなくなる。それだけは分かっていた。ロルフの唇が微かに動いた。声にはならなかった。だが目は開いていなかった。


 ロルフを担ごうとした。背中に手を回し、持ち上げようとした瞬間、ブランドの腕がナナハルトの肩を掴んだ。


「バカ、担ぐな!」


 大男の声が低く割れた。


「矢が中を抉るぞ。動かすなら水平にしろ」


 ナナハルトの手が止まった。ブランドの言う通りだった。背中に刺さった矢が振動すれば、内臓を更に傷つける。担げば、ロルフを殺す。


「ナナハルト」


 広場の南東から、泥と血にまみれたアデルベルトが駆け寄ってきた。革鎧はあちこち裂け、盾の紋章に亀裂が入っている。額の血は乾いて茶色い筋になり、赤い髪に張りついていた。防衛線が崩壊し、紅い霧が全てを終わらせた後も、あの穴に立ち続けていたのだろう。歓声の輪には加わっていなかった。王の演説の間、広場の隅で黙って立っていた。


 アデルベルトは一瞬だけロルフの背中の矢を見て、踵を返した。走った。市場の瓦礫に向かって走り、崩れた露店の残骸をかき分け、木と鉄でできた手押し車を引きずり出してきた。野菜を運ぶための粗末なリヤカーだった。車輪の一つが歪み、軋む音を立てて回っている。


「乗せろ。水平に」


 三人でロルフの身体を慎重に荷台に移した。矢を振らさないように、ゆっくりと。ブランドが頭を支え、ナナハルトが腰を支え、アデルベルトが足を支えた。ロルフの唇が微かに動いたが、声にはならなかった。荷台の木の板がロルフの体重を受けて軋んだ。


 ナナハルトが手押し車の柄を掴んだ。


「一気に走ります」


 柄を引き、力任せに踏み出そうとした瞬間――膝から不意に力が抜け、身体が石畳に傾いだ。

 先ほどまで弦を弾き続け、あの和音を限界まで維持した代償だった。感覚の消えかけた指先は木の柄をまともに握るのすら難しく、背中から脚にかけて筋肉の繊維が刃物で裂かれたように軋んでいる。泥のついた重い手押し車と、限界の近い自分の足だけが、今のナナハルトに残された移動手段だった。


「無理すんな。顔が真っ白だぞ」


 アデルベルトが柄を掴む手に力を込め、ナナハルトの身体を支えた。


「一緒に走るぞ」


 アデルベルトが車の反対側の柄を掴んだ。歪んだ車輪が軋み、赤い粉が轍の形に散った。


「お前が前を引け。俺が後ろから押す」


 ナナハルトは柄を握り直した。震える手で。木の柄の表面がロルフの血とナナハルトの汗でぬるく滑り、握り直すたびに指の関節が軋んだ。


 広場の向こうで、歓声がまだ続いていた。「英雄万歳!」と叫ぶ声が紅い霧の残りを震わせている。


 二人の少年騎士は、歓声の渦を背に受けながら、泥臭く石畳を歩き始めた。車輪が石に跳ねるたび、ロルフの唇から微かな呻きが漏れ、その度にアデルベルトが車を押す手の力を微妙に調節して衝撃を吸収していた。


 今は、何かをしていないと、気がおかしくなりそうだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ