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王の号令

 紅い霧がまだ広場の低いところに溜まっている中で、最初に動いたのはハルグリムだった。


 長椅子の影から身を起こしたハルグリムは、右手の演算器の光が消えかけているのも構わず、左右に視線を走らせた。唇が無音で数を刻んでいる。敵兵の残存数を数えているのだった。広場の東側、西側、路地の奥。どこを見ても黒い鎧の姿はなかった。紅い霧の中に靴だけが残っている場所があった。中身のない靴が、石畳の上に並んでいた。


 ハルグリムの唇の動きが止まった。算出が終わったのだった。


 参謀は紅い霧の中を歩いた。靴底が霧の沈殿物を踏み、赤い粉が足跡の形に散った。呆然と剣を下ろしたまま立ち尽くしているソスヴァルド王の背後に近づき、王の耳元で、聞こえるか聞こえないかの声量で囁いた。


「……敵戦力の残存、確認できません。広場および周辺路地において、完全な消失です」


 王が微かに顎を引いた。ハルグリムは続けた。


「原因は不明ですが、今はそれを問うべきではない。民と兵が見たものを、陛下、定義してください。士気の固定を最優先に」


 王の背中が、一つだけ深い呼吸をした。


 ハルグリムが王の傍を離れた。その足で、教会の前に膝をついたままのルキウスの横を通り過ぎた。通り過ぎる瞬間、ハルグリムの唇がわずかに動いた。ルキウスに何かを囁いたのか、独り言だったのかは、離れた位置にいたナナハルトには判別できなかった。


 ルキウスの背中が動いた。膝をついたまま、右手が胸元の十字を握り直した。修道騎士の声が、低く、しかし広場の石壁に確かに反射する声量で響いた。


「……神威だ」


 絞り出すように短い声だった。ルキウスの目には涙が残っていたが、声は震えていなかった。信仰を守る者としての、組織の言葉だった。祈りの姿勢のまま空を仰ぐその姿を、周囲の兵士たちが見ていた。修道騎士が神威と呼んだ。教会の楽器が天から降りた。ならば、これは。


 広場の空気が、恐怖から別の何かに傾ぎ始めた。


 その均衡を、ブランドが叩き割った。


「終わりだ!」


 ロルフとリーゼルを庇い続けていた大男が立ち上がり、紅い霧を吸い込むことも厭わず、広場に向かって腹の底から吠えた。大剣を石畳から引き抜き、切っ先を天に突き上げた。


「俺たちの勝ちだ!!」


 戦場の怒号に慣れた喉が生み出す音量は、広場の隅々まで物理的に届いた。声帯に理屈はなかった。正しいか正しくないかではない。終わったのだ。敵はいない。味方は生きている。それだけが、ブランドの声にはあった。


 凍りついていた兵士の一人が、大剣を持ち上げた。もう一人が、盾を叩いた。金属音が広場に跳ねた。つられるように、二人、三人と武器を掲げる腕が増えていく。まだ声の形にはなっていなかったが、握りしめた武器から震えが消え始めていた。


 紅い霧がまだ晴れきらない広場を、ソスヴァルド王が躊躇なく横切った。剣は鞘に収めたまま抜く必要を失っていた。足元に沈殿した赤い粉を踏みしめ、一歩一歩を広場の全員に見せるようにして歩いた。ナナハルトの耳には、王の心拍がわずかに速くなっているのが聞こえた。だが歩幅は一定だった。呼吸も乱れていなかった。心臓だけが正直で、身体の残りの全てが王としての制御下にあった。


 呆然として手を見つめたまま石畳に座り込んでいるナナハルトの前で、王の革靴が止まった。ナナハルトの目の高さに、泥と赤い粉にまみれた靴先があった。


 ソスヴァルド王の手が、ナナハルトの襟を掴んだ。


 革の手袋が革鎧の首元を握り、力任せに引き上げた。石畳にへたり込んでいたはずの身体が、広場の視線の高さに引きずり出される。酸い吐瀉物の匂いが、王の鼻先をかすめたはずだった。王は眉一つ動かさなかった。


 次の瞬間、後方へ放り投げられた。


「ブランド!」


 声の方角を見る前に、身体が宙に浮いていた。王の腕がナナハルトの身体を後方に投げ飛ばし、石畳を三歩分滑った先で、ブランドの巨大な腕に受け止められた。大剣を地面に突き立てたまま、片腕でナナハルトの身体を受け止め、襟を掴んだ手を緩めずに顔を覗き込む。


「生きてるか、チビ」


 広場に向かって吠えた喉と同じ喉から出ているとは思えないほど、低く掠れた声だった。答える声が出なかった。口の中が嘔吐の酸味で灼けていた。頷くことしかできなかった。


 ソスヴァルド王が広場の中央に立った。紅い霧の中に王の金髪が浮かび上がり、エーテルの残滓が消えかけた毛先から、青い光が薄れていく。広場を埋め尽くしていた敵はもういない。残っているのは、味方の兵士と、路地から顔を覗かせ始めた住民と、紅い霧の沈殿物だけだった。


 王が両腕を広げた。


「勝利だ!」


 声が広場を貫いた。戦場で部下の名前を呼ぶために鍛え上げられた、泥と鉄の匂いのする声が、呆然と立ち尽くす従士団と住民の頭上を一直線に走り抜けた。鐘楼の壁に跳ね返り、路地の奥に潜り込み、教会の屋根を舐めて、広場を一周して王の元へ戻ってきた。


「我がヴィンターガルドの騎士たちよ! 我がヴィンターガルドの民よ! 見よ、敵は退いた! この街は守られた!」


 視線が広場を巡った。倒れた者に。立っている者に。壁際に座り込んで血を押さえている負傷兵に。路地の角から恐る恐る顔を出している母子に。一人一人の目を、数秒ずつ、等しく見た。


「泥に塗れ、血を流し、それでも退かなかったのは――誰だ」


 答えは、すぐには返らなかった。兵士たちが隣を見た。住民が隣を見た。自分か、と。自分が退かなかったのか、と。王は待った。その沈黙を、掌で握るようにして。兵士の息遣いが聞こえるほどの静寂を、五秒、十秒と引き延ばした。


「お前たちだ」


 声が一段低くなった。


「騎士だけではない。子を庇い、隣人の手を引き、逃げずにここに立った全ての民の力だ」


 声が教会の壁に跳ね返り、鐘楼に反響した。路地の奥に隠れていた住民が、一人また一人と石畳に足を踏み出し始めた。


「そして」


 王は空を仰いだ。紅い霧が薄れつつある冬の空を見上げている。光のパイプオルガンはまだ残像のように空に滲み、その輪郭が冬の雲に溶けかけていた。


「応えがあった」


「光が降りた。音が鳴った」


 声が静かに落ちた。広場を満たしていた反響が消え、王の吐息だけが聞こえるほどの沈黙がくだった。


「何が起きたか。見たはずだ」


 ゆっくりと、王の視線がナナハルトの方へ向いた。ブランドの腕に支えられて立っている、血と煤と嘔吐の跡にまみれた革鎧の少年を。


「ナナハルト」


 名を呼ばれた瞬間、広場の視線が一斉に集まった。逃げ場がなかった。数千の目が、紅い霧の沈殿物を踏んで立っている少年の顔を見ていた。


「お前は、何をした」


 答えを待たなかった。ナナハルトが口を開く前に、王はわずかに頷いた。少年の顔を見て、吐瀉物にまみれた胸元を見て、震えている手を見て、それでも頷いた。


「……そうか」


「ならば、それが答えだ」


 王は群衆へ向き直った。


「この街を守ったのは、祈りか。勇気か。それとも、音か」


 王は答えを言わなかった。目が広場の隅々を巡り、声が地を這うように低くなった。


「決めるのは、お前たちだ」


 沈黙は一瞬で破られた。


「女神だ……!」


 誰かが呟いた。路地の奥からだった。声の主は見えない。だがその一言が、ルキウスが敷いた「神威」の土台の上に落ちた火種になった。


「奇跡だ!」


 声は波のように広がった。路地から広場に戻ってきた住民が、まだ目に涙を溜めたまま、拳を掲げていた。泣きながら笑っていた。子供を抱き上げて無事を確認する母親が声を上げ、膝をつく老人が王の名を呼んだ。


「英雄だ!」


「女神万歳!」


 王はその声を遮らなかった。両腕を下ろし、静かに受け止めた。目を細め、口元にかすかな笑みを浮かべた。その笑みの下で、碧眼が広場の空気を読み切っていた。


「この戦いで傷ついた者、家を失った者、大切なものを奪われた者。そのすべてに、私は王として約束する」


 声が低く、重くなった。


「壊された家は必ず(・・)建て直す。傷ついた身体は必ず(・・)癒す。失われた暮らしは、この私とお前たちの手で、必ず(・・)取り戻す!」


 歓声が広場を揺らした。


 誰も、紅い霧が何でできていたのかを確かめようとはしなかった。もう、答えは決まっていた。光が降り、音が鳴り、敵は退いた。女神が降臨し、英雄が奏で、王が約束した。それで充分だった。それ以上のことを考える余裕は、戦火をくぐり抜けたばかりの人間には残っていなかった。


 ソスヴァルド王は歓声の中に立っていた。笑みがあった。安堵にも見え、責務にも見え、民への愛情のようにも見える、どこからも正体を掴ませない表情だった。


 その視線が、ナナハルトに触れた。一瞬だった。弦を弾いた少年の価値を、王国の未来の中に代入し終えたような、静かな碧眼だった。次の瞬間には、もう民衆の方へ向き直っていた。


 広場の反対側で、ハルグリムがディートリヒに何かを囁いていた。ディートリヒが帳面を開き、ハルグリムの言葉を書き留めている。懐中時計を一瞥し、蓋を閉じた。時刻と状況の記録。紅い霧の中でも、二人は記録を止めていなかった。

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