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戦場の合奏

 最初の一音が、盾になった。


 弦の振動が結晶を通じてエリへと流れ、エリの光のパイプオルガンが応えた。音が光に変わり、光が壁になった。広場全体を覆うエーテルの障壁が半球状に展開し、薄く透明な天蓋が教会の尖塔すら包み込んだ。


 障壁の内側に弾かれた斧が石畳に転がり、突き出されたままの槍の穂先が壁の表面で火花を散らして滑った。ナナハルトの小さな盾では塞ぎきれなかった穴の全てが、たった一音で閉ざされていた。


 ロルフとリーゼルを庇って膝をついていたブランドの頭上にも、光の天蓋が広がった。大男の頭が一瞬だけ上を向き、光の壁を見て、また下を向いた。両腕は動かぬロルフとリーゼルを抱え込んだまま、一度も緩めていなかった。


 ナナハルトの指が震えていた。守れる。この音は、守れる音だ。


 エリも、崩れかけていたバランスを取り戻していた。パイプオルガンの管が安定し、不規則な明滅が収まって一定のリズムに戻っている。エリの肩から力みが抜けた。出力が足りなかったのは本当だった。ナナハルトの弦がエリのシステムの欠けた歯車を埋め、二つの回路が一つの機関として噛み合い始めている。


 エリが言った「合理的」の意味が、掌の振動を通じて伝わってきた。彼の音がエリの出力の不足を補い、エリの構造物が彼の音を何百倍にも増幅する。互いが互いの欠損を塞ぐ、完全な相互補完。覚えておく、と彼女は言った。あなたのその響きを、覚えておく、と。


 記憶が身体の奥から浮かび上がった。地下都市の広間。エリのパイプオルガンの前で、カリンバを弾いた夜。あの時の合奏は、ぎこちなくて不揃いで、もどかしいほどに噛み合わなかった。エリの完璧な旋律に、自分の拙い音がどうしても追いつけなかった。あれから、もう一年以上が経っている。


 もう一音。弦を深く弾いた。結晶がエリの角と共鳴し、光のパイプオルガンが半音上がった。二つの音が重なり、和音が生まれた。あの日には届かなかった音に、今、指が届いている。三音目。四音目。指が止まらなかった。音楽が指を引っ張り、指が音楽を追いかけ、弦と管と光と空気が一つの旋律に編み上げられていく。


 ナナハルトの変奏器とエリのパイプオルガンが、完全に同調した。あの日の未完成の合奏が、今この瞬間に、完成しようとしていた。


 戦場にあってはならないほど透き通った音が、広場の空気を隅々まで満たしていた。鐘楼の鐘が共振して低く唸り、教会のステンドグラスが音に応えて七色に燃え、石畳の上の血溜まりがさざ波を立てて震えている。


 ルキウスが白い法衣の膝を石畳につけたまま天を仰いでいた。頬を涙が一筋伝い、修道騎士の顎先から滴って石畳に落ちた。


 敵も味方も、誰もが手を止めていた。


 ナナハルトは弦を弾きながら、一瞬だけ忘れかけていた。ここが戦場であることを。ロルフが倒れていることを。自分の手が血で濡れていることを。音楽だけが世界のすべてで、音楽だけがエリとの回路で、今この瞬間だけは何もかもが正しかった。


 指が最後のフレーズを紡ぎ終えた時、響きが頂点に達した。全ての管が同時に鳴り、全ての弦が一つの和音に収束した。一人の少年と一つの都市が奏でる、ただ一度きりの完璧な共鳴が、冬の広場の空気を隅々まで震わせた。


 純度の高い透明な響きが石壁に跳ね返り、何重にも重なって、街の隅々まで染み込んでいく。


 そしてその響きの先端が、空気を裂いた。


 目には見えない何かが、広場の中心から同心円状に押し広がっていく。石畳が震え、鐘楼の鐘が触れてもいないのに低く鳴り、血に濡れた水たまりの表面が外側に向かって波紋を描いた。


 黒い鎧の兵士たちが、同時に止まった。走る足が宙で止まり、振り上げた斧が落ちない。叫びかけた口が、その形のまま固まった。


 鎧の表面に、霜のような白い模様が走った。音に触れた部分から、金属の色が変わっていく。黒い鉄が灰色に干上がり、乾いた土のように微細な亀裂を走らせた。ひびは音もなく全身に広がり、鎧の継ぎ目から、腕の関節から、兜の覗き窓から、粒子が零れ始めた。


 一人ではなかった。十人、二十人、そして視界に入るすべてが。鎧ごと、身体ごと、形を保てなくなった兵士たちが砂よりも細かく崩れ、空中に解けていった。崩壊は音を立てなかった。金属がぶつかる音も、人が倒れる音も、悲鳴さえも。ただ、冬の空気の中に人の輪郭が溶け出し、粒子が舞い上がり、それが光を受けて色を変えた。


 視界が、紅く染まった。


 人の形を失ったものが、霧のように広がっていく。冬の朝の弱い陽光を受けて、それは赤く、静かに輝いた。百人。二百人。広場と周囲の路地を埋め尽くしていたグランツの兵が、たった一度の響きで、跡形もなく消えた。紅い霧が広場を満たし、ステンドグラスの光と混ざり合って、世界は赤と紫に染まった。


 霧が肺に入ってきた。鉄錆に似た、だがもっと生臭い匂いが気管を灼いた。喉の奥が焼けるように熱く、舌の上に金属の味が広がった。


 美しかった。夕焼けのように、温かくさえ見える光だった。だがそれが何でできているのかを、ナナハルトは知っていた。さっきまで槍を構え、斧を振り、怒号を上げていた人間の身体が、今、この紅い粒子になって広場を漂っている。自分の弦が、自分の指が、自分の音楽が、それをやった。


 胃の奥から熱いものがこみ上げた。石畳に膝をつき、吐いた。酸い液体が石の隙間に散り、紅い霧の沈殿物と混ざって泥色の染みを広げた。


 それでも、吐けたのは一度だけだった。もう胃の中に出すものが残っていなかった。


 手が震えていた。指が言うことをきかない。右手を見た。ロルフの血と、霧の残りが混ざって、赤く濡れていた。結晶はまだ掌の中にあった。何事もなかったかのように、エリの角の欠片が規則的な明滅を繰り返している。

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