神の音楽
冬の曇天の一角が歪んだ。空に張り詰めていた灰色の雲の層が、ガラスを内側から叩いたように罅割れ、その裂け目を起点にして虹が走った。
虹は通常の弧を描かず、円形に広がり、雲を押し割りながら直径を広げていく。掻き分けられた雲の円の中心から、光が降りてきた。
エリュシオンの回路を流れるエーテルと同じ色をした、冷たく透明な青白い光の柱が、冬空から一筋、教会広場の中央に向かって石のように落ちてきた。
光が石畳に触れた瞬間、着弾点を中心に広場の地面が白く弾けた。直径十メートルの円形に石畳が蒸発し、下層の地面が露出して白い蒸気を噴き上げている。
石材の中に含まれていた水分が一瞬で気化したのだった。吹き上がった蒸気がナナハルトの頬を撫で、冬の空気の中にいるはずなのに、一瞬だけ夏の湿気に似た温かさが肌を包んだ。
その中心に、彼女が立っていた。
黒い髪がエーテルの風に煽られて扇のように広がり、深緑のワンピースの裾が重力を忘れたように宙に浮いている。灰緑のケープが背中から剥がれ、千切れた布片が蒸気に巻かれて空へ舞い上がった。頭を覆っていた布も今は無く、山羊のように弧を描く黒い角が完全に露出していた。金色の瞳が開いている。横長の瞳孔が、広場に散らばる数千の人間を一度に視界に収めていた。
エリの姿をしていた。だがナナハルトが知っているエリの気配とはかけ離れていた。
少女の声帯の振動から指先の所作まで、すべてが都市の管理端末として最適化された状態に置き換えられていた。
これはおそらく、管理者モードなのだ。エリュシオン・マトリクス・トラゴスの全機能を掌握した存在が、観測者としての規約を破り、管理領域の外であるこの地上に実体を持って立っている。
エリの身体を起点として、巨大な構造物が展開し始めた。
光のパイプが空に伸びた。放射状に広場の上空へ向かって、透明な管が次々と展開していく。
それは、地下都市の壁面に立ち並んでいたパイプオルガンの管と同じ構造を持っていた。光と振動を骨格にして編み上げられた、半透明の巨大な構造物だ。管の数が百を超えたあたりで、ナナハルトの目がその全容を認識した。教会広場を覆い尽くすほどの、天を突く光のパイプオルガンが目前に広がっている。
数百本の管が完全な左右対称に配列され、管の表面はエーテルの光が波のように走っていた。一本一本がわずかに異なる倍音で震え、空気そのものが楽器の共鳴箱と化している。重なっているのに、ぶつからない。無数の音が同時に鳴っているはずなのに、濁りが一切なかった。
教会のステンドグラスが光を受けて七色に灼け、広場全体が蒼と白の荘厳な光に包まれ、石畳に落ちる影が消える。
戦闘が止まった。味方も敵も、槍を突き出していた腕が力を失って垂れ下がり、盾を構えていた足が石畳に縫い留められたように動かない。広場を見上げる数千の目が、空に林立する光の管を凝視して瞬きを忘れていた。
修道騎士ルキウスは、教会の正面で、剣の柄を握ったまま膝をついた。空を仰いだ顔の上を、ステンドグラスの七色が這っている。唇が祈りの言葉を形作りかけて、途中で止まった。パイプオルガンは教会の楽器だった。神の栄光を讃えるための、最も荘厳な楽器。それが今、教会の屋根を遥かに超える規模で、天から降りた光によって広場の上空に出現している。ルキウスの右手が剣の柄を滑り落ち、思わず手を組んだ。
エリの角が光を吐いた。黒く美しい弧を描いた二本の角の表面を、エーテル回路の模様が明滅しながら走っている。パイプオルガンの展開を維持する過負荷が、角の結晶構造を内側から蝕んでいた。角の付け根から根のように広がった光の筋が、こめかみの肌の下を青白く透かしている。
頭上のエリと視線が合った瞬間、叫んでいた。
「エリ! 大丈夫なのか!」
地下都市の師匠、クレーナは言っていた。エリは地下都市以外の活動は制限を受けると。コアの出力を受け取れなくなったら、動作を停止すると。あのケープさえ、「破るな。濡らすな。燃やすな。刃を通すな」と言っていたではないか。命綱だと。そのケープが千切れて飛んでいった。エリの身体を地上で維持するための最低限の防護が、既に剥がれ落ちている。
エリの唇が動いた。
「許容範囲上限外――だけど、これ以上観測対象の損傷を許容はできない」
管理者としてのエリの声が、一瞬だけ和らいだように聞こえた。
「僕を……王国を護るために君が動いていいのか?」
「合理的――あなたの世界を護ることは、わたしの運用目的として、合理的」
エリの運用は地下都市のためにあるのだから。ナナハルトのためではない。合理的であるはずがない。
「合理的なものか!」
声が割れるほどに叫んでいた。
「エリが壊れたら合理もなにもないだろ! こんな無茶をするな!」
横長の瞳孔がわずかに丸みを帯びた。管理者の完璧な制御が一瞬だけほどけ、少女の輪郭が覗く。
が、次の瞬間には、もうシステムの静けさに戻っていた。
ガラスを噛み砕くような、だがもっと高く澄んだ音が広場の空気を切った。エリの右角の先端が砕け、親指の爪ほどの欠片が弧を描いて石畳の上に落ちてきた。乾い音を立てて微かに跳ね、転がった。高純度エーテルの固体が、光を内包したまま石畳の上で機械的に明滅している。その明滅の周期が、ナナハルトの心拍と同期しかけて、ずれた。
「要求値未達……まだ、足りないの」
エリの声が低く落ちた。管理者の声帯制御に、意図しない振動が混じっていた。角の欠損がシステム全体の出力バランスを崩し始めている。パイプオルガンの管の一本が明滅して消えかけ、すぐに点り直した。歯車の欠けた機関のように、光の構造物全体が不規則なリズムで揺らいでいる。
「出力が足りない。このままでは護りきれない。でも、あなたなら手伝える」
エリの視線がナナハルトを射抜いた。
「相互連携許可――わたしの欠片が、あなたの弦の力になれる」
ナナハルトは石畳の上に転がった薄い結晶を見た。明滅する青白い光。エリの角の一部であり、都市そのものの欠片だった。
「……これで、弦を弾くのか」
「承認」
ナナハルトは手を伸ばした。
槍に囲まれていたはずだった。だが八人の兵士は全員が武器を下ろし、空を見上げたまま凍りついていた。ナナハルトの存在を忘れている。天に浮かぶ光のオルガンと角を持つ少女の姿が、兵士たちの人間としての思考回路を飽和させ、判断そのものを停止させていた。
ロルフの血で濡れた右手が、石畳の上の結晶に触れた。温かかった。冬の石畳の冷たさの中に、その結晶だけが別の温度を持っていた。血の温度ではない。もっと深い場所から来る、都市の核に近い熱。指先が結晶を包んだ瞬間、掌の脈拍に合わせて結晶の明滅の間隔が変わった。心拍の周期と完全に同期している。
盾を左腕に構えた。弦が血と煤で汚れている。右手に持った結晶の欠片をピックの代わりに四本の弦に当て、弾いた。




