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弓使いの血

 広場の北側から、新たな敵国グランツの部隊が流れ込んできた。路地を抜けてきた別働隊だった。ハルグリムの演算では把握しきれなかった変数。広場の防衛線が両面から挟まれ、一気に崩れた。


 歩兵の列が散り散りになった。ナナハルトは障壁を展開して後退しようとしたが、味方と敵が入り乱れて、もう壁を張る隙間がなかった。


 混戦の中で、子供の泣き声が聞こえる。金属と怒号の中、ナナハルトの耳はそれを聞き分けた。


 広場の北東の隅、市場の露店が崩れた瓦礫の陰に小さな身体がうずくまっていた。煤にまみれた髪を留めている青い布のリボンに、視界が釘付けになった。母が端切れで縫った、あの不格好な蝶結び。妹だった。


「リーゼル!」


 叫んだが、声は怒号と金属音に削られて半分も届かない。それでもリーゼルは顔を上げた。涙と煤で汚れた頬に怪我はなく、両手で耳を塞いで泣いていただけだった。


「お兄ちゃん!」


 妹の声が、瓦礫の隙間を縫って届いた。


「怪我はないか! 一人か!」


「お遣いで来てたの! お母さんはお店にいるの!」


 息が一つ、震えながら抜けた。母は店にいる。店は広場から離れている。だがリーゼルは今、戦場の真ん中に一人でいる。

 距離が遠すぎた。ナナハルトの足は防衛線に縫い留められている。右手にはアデルベルトが血を流しながら穴を塞いでいる。走れば、あの穴が開く。穴が空けば、敵は南側の避難民に流れ込む。


 教会の屋根を見上げた。


「ロルフさん! 北東に――妹がいる! 頼む!」


 屋根の上で、ロルフがこちらを見た。一瞬だけ目が合って、次の瞬間にはもう動き出していた。弓を背に回し、屋根を蹴って瓦礫の間を軽やかに降りていく。弓使いの足が地面を選ぶように跳ねながら、リーゼルのもとへ向かった。


 リーゼルの前に膝をつき、片腕で抱え上げた。


「大丈夫、大丈夫だよー。お兄ちゃんの友達だからねー」


 いつもの声だった。戦場の真ん中で、そこだけが場違いなくらい穏やかだった。妹の泣き声が一瞬止まった。ロルフの腕にしがみつく小さな手が見えた。


 音が、ナナハルトの耳に引っかかった。弩弓がしなる音。そして、空気を裂く硬い音。

 どこだ――

 次の瞬間、矢はロルフの背中に向かっていた。


「ロルフさん――!」


 声が届く前に、矢が着弾した。


 ロルフの背中が揺れ、身体が前に傾いだ。だがリーゼルを抱く腕だけは、一切緩まなかった。一歩を踏み出そうとした膝が折れた。


 背中に、矢が立っていた。


 それでも両腕だけは固く締まったまま妹の身体を包み込んでいる。守る形のまま、石畳に崩れ落ちた。


 リーゼルの悲鳴が広場を裂いた。


「おじさん! おじさん!!」


 ロルフの腕の中で暴れる小さな手が、血に濡れ始めた背中の矢に触れて引っ込んだ。


「ロルフ!」


 ナナハルトが駆け寄った。楽器盾を地面に突き立て、倒れたロルフとリーゼルの周囲にエーテルの壁を張った。壁の向こうで敵兵がぶつかってよろめく。三十秒。それだけの猶予。


「リーゼル、離れるな。ここから絶対に動くな」


 妹の目が、兄を見上げた。小さな顎が震えていたが――頷いた。


 ロルフの身体を仰向けにした。矢が背中に刺さったまま動かせない。血が鎧の隙間から溢れ、石畳に赤い染みを広げていた。

 血に濡れた髪が顔に張りついている。そばかすの残る顔がナナハルトを見上げていた。まだ意識がある。口が動いた。


「妹ちゃん……怪我は……」


「してない! リーゼルは無事だ! だから喋るな、止血を――」


「ナナハルト」


 ロルフの声が、いつもの調子から少しだけずれていた。


「大丈夫だよ……」


 まるで笑うみたいに、息を一つ吸って。


「僕は……ちょっと、のんびりするだけだから……」


 いつも通りの言い方だった。だからこそ、少しだけ違って聞こえる。


 灰色の瞳から光が薄れていった。瞼が重そうに落ち、呼吸が浅くなった。

 意識が遠のいている。手のひらで押さえたロルフの背中から、生きている温度の液体が指の間を滑り落ちていく。


 脈はあった。微かに。けれど、音がなかった。ロルフの中から、何も聞こえなかった。


 耳鳴りがする。


 戦場の音が遠くなった。金属と怒号と悲鳴が水の底に沈んだように輪郭を失い、代わりに甲高い金属音が頭蓋の内側で鳴り響いた。


 ブランドがナナハルトに追いつき、ロルフとナナハルトを交互に見る。


「ブランドさん、ロルフと、妹を頼みますッ」


「おい」


 ナナハルトは立ち上がり、再び楽器盾を左腕に通した。エーテルの壁はまだ保っているが、長くはもたない。それでも、今やらなければならなかった。


「ロルフの敵を、撃つ!」


 視界が白くなっていた。石畳の灰色と血の赤が飽和して、色の境界が溶けかけている。


 踵がエーテルを蹴った。ロルフを撃った射手の方角へ、石畳を蹴るたびに青白い光を足元で弾かせながら広場を斜めに疾走した。音楽のように拍を刻んでいた思考のリズムが崩壊している。盾で誰かを守るためではなく、ただ敵を感じた方角に身体が突っ込んでいた。


 三人の敵兵の横を擦り抜け、四人目の盾を楽器盾で弾き飛ばした。弦が悲鳴のような音を立て、衝撃波が敵兵を石畳に叩きつけた。


 だが止まったのが間違いだった。


 広場の北端まで突出していた。味方の防衛線から二十メートル以上離れている。四方を敵に囲まれていた。エルヴィンの声が記憶の中で響いた。止まった瞬間に的になる。


 槍が三本、同時に突き出された。楽器盾で左を弾いたが、右と背後をカバーできなかった。右の槍が肩に当たり、革鎧の表面を裂いた。浅い傷だったが、衝撃で体勢が崩れた。背後の槍を回避する余裕がなく、柄の部分で背中を殴られた。


 石畳に膝をついた。


 六人、いや八人の兵士が槍と斧を構え、半円形にナナハルトを取り囲んでいた。逃げ場がない。盾の弦を弾いても全方位は塞げなかった。


 ふいに胸元が灼けた。


 革鎧の内側に留めたブローチが皮膚を焦がすほどの熱を放ち、同時に鼓膜の裏側を針で直接引っ掻くような音が耳の奥に突き刺さった。


『……ナナハルト……応答を……エリュシオンが……臨界に……止め……!』


 クイルの声だ。丁寧だったはずの記録者の声が、聞いたこともない音程で割れていた。明らかな異常事態。

 だが、八本の槍の穂先が視界を埋め、次に瞬きをする前に喉に届く距離まで迫っている。声の意味を解く余裕はなかった。ブローチの熱だけが、胸の皮膚に食い込んでいる。


 最初の槍が動いた。ナナハルトの喉に向かって、まっすぐに。


 そして、空が、裂けた。

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