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燃える王都

 風に乗って届いてきたのは、木が裂ける音だった。瓦の落ちる音が続き、その隙間を縫うように女と子供の悲鳴が響いている。戦場ではなく、街が壊されている音だった。


 ソスヴァルド王が馬上で剣を抜いた。峠の下を一瞥し、ナナハルトが息を吸うよりも早く視線を戻していた。


「北門が破られている。敵は市街に入った」


 ハルグリムの右手の演算器が青白く点灯した。虚空を見据えた目が左右に走り、唇が数値を刻み始める。


「煙の分布から推測して、居住区の北側二区画が交戦地域。教会広場の周辺まで侵入されている可能性がある」


 ハルグリムの隣で、ディートリヒが伝令兵から受け取った紙片を読み上げた。声は低く、揺れていなかった。


「北門守備隊、壊滅。残存兵力は推定二割。突破から現在まで、およそ一刻」


 懐中時計を一瞥し、蓋を閉じた。


 教会広場。ナナハルトの呼吸が止まった。教会広場の裏手には孤児院がある。ヘイルルーンが浄水装置を設置し、子供たちが水を汲んでいた、あの孤児院。


「全軍、南門から入る。ナナハルト」


 ソスヴァルド王から鋭い指示が入る。


「お前は先行しろ。靴の速度なら馬より速い。南門から入り、住民を城の方角へ逃がせ。戦うな。逃がせ」


「了解です」


「ブランド。ナナハルトの後を追え。合流したら、住民を守りながら敵を広場に寄せろ。市街で乱戦をさせるな」


「応ッ!」


 ブランドが大剣を肩に担ぎ直し、馬から飛び降りた。地面を踏みしめた衝撃で足元の雪が弾け飛んだ。


「チビ、先に行け! 俺がすぐ追いつく!」


 自分のブーツには自作の回路板が縫い付けてある。視線の端で、ディートリヒが腰の鞄から試作靴を取り出しているのが見えた。


 ナナハルトの踵がエーテルを蹴った。身体が勢いよく前に射出され、雪を巻き上げながら峠の斜面を一直線に駆け下りる。ブーツの底からエーテルの青白い光が漏れて雪面に一筋の軌跡を残し、風が轟いて防寒マントが暴れ、背中の盾型変奏器ヴィェラン・シールドが風を受けて唸った。


 南門は開いていた。門兵が槍を構えて立っているが、その足元を避難民がなだれのように押し寄せている。老人の杖が石畳を叩き、子供を抱えた母親が転びそうになりながら走り、泣き叫ぶ乳児の声が戦闘音の隙間を縫って鋭く響いていた。


 門を抜けると、靴底に返す感触が変わった。雪原のしなやかな抵抗ではなく、王都の石畳が膝まで硬く冷たい衝撃を突き上げてくる。狭い路地の両側に木造の家屋が並び、張り出した二階の窓から物干しの洗濯物が垂れている。その日常の輪郭が、煙と怒号で崩れかけていた。


 角を曲がると、煙が濃くなった。


 パン屋の屋根が燃えていた。瓦が崩れ落ち、煙と火の粉が路地に渦を巻いている。熱風が顔を打ち、目が痛んだ。その煙の向こうから、人影が走ってきた。


 灰色のエプロンをつけた中年の女性が、三歳ほどの子供の手を引きながら、転びそうになりつつ石畳を走っている。その後ろから、鎧の音が追ってくる。グランツの兵士が二人、武器を構えて路地に浸入していた。


「こっちです! 南門の方へ!」


 ナナハルトは盾の弦を弾いた。エーテルの障壁が路地を塞ぐように展開し、追ってきた兵士の進路を遮断した。不可視の壁にぶつかった兵士がよろめき、舌打ちをして後退した。障壁が弾けるまで、そう長くは持たない。女性と子供は路地の奥へ消えた。


 次の路地を走ると、石畳の上に座り込んだ老人がいた。足が悪いのか動けなくなっている。その横を走り抜けかけて、ナナハルトは足を止めた。


 盾を背中に回し、老人を抱えた。老人の体重で走る速度が半分に落ちたまま三つ先の角を曲がり、南門に向かう避難民の流れに合流させてから、また走った。


 何人助けたか分からなかった。路地から路地へ、煙の中を走り回り、逃げ遅れた住民を南へ、南へと誘導し続けた。盾で障壁を展開して敵の進路を塞ぎ、その隙に住民を逃がす。同じことを繰り返した。何度繰り返したか、途中から数えていなかった。


 路地の角からブランドが現れ、大剣を横に薙いで路地を塞いでいた敵兵を弾き飛ばした。返り血が頬から顎に線を引いている。目が据わっていた。市街戦に入ってからずっとこの顔だったのだろう。


「チビ! 教会広場にかき集めるぞ! 王の命令だ!」


「孤児院の子たちは!」


「ルキウスが先に入った! 子供たちはもう城に逃がしてる!」


 息が一つだけ楽になった。ルキウスが先に動いていた。あの修道騎士が、子供たちを優先して避難させている。ナナハルトはブランドと並んで教会広場に向かった。


 広場は王都の中心に位置する石畳の円形空間で、中央に鐘楼がそびえている。周囲を石造りの教会と市場の建物が囲んでいる。ここなら木造家屋が少なく、火災が広がりにくい。敵をここに集めれば、市街への被害を最小限に抑えられる。


 だが広場に着いた時、その計算は既に破綻しかけていた。


 グランツの兵が広場を埋め尽くしていた。三千の本隊は数の暴力で北門を突破し、市街の路地という路地に兵を流し込んで、広場を制圧しつつあった。従士団の歩兵が広場の南側に防衛線を敷いているが、数が違いすぎた。線はところどころ破れ、そこから黒い鎧の兵士がなだれ込んでくる。


 防衛線の最前列に、エルヴィンがいた。大盾を地面に突き立て、片手剣を添えたまま、崩れかける歩兵の列を身体ひとつで止めている。

 白髪交じりの頭が敵の斧を受け流すたびに揺れ、老兵の咆哮が若い兵士たちの足を石畳に縫い留めていた。


 アデルベルトは二列後ろで、防衛線の南東の角で歩兵が二人倒れた穴に、自分の身を押し込むようにして立っている。盾を左手に構え、右手の剣が深い踏み込みとともに弧を描いた。


 敵兵が二人、同時に斧を振り下ろした。アデルベルトの剣が最初の一撃を弾き上げ、盾を半歩前に出して二撃目を逸らす。逸れた斧の柄を掴んで引き、体勢を崩した兵士の胴を蹴り飛ばした。無駄な力がなかった。剣と盾だけで、あの穴を塞いでいた。


 革鎧はあちこち裂け、額から血が一筋流れていた。だが足は一歩も下がっていない。正しいと思った場所に立ったら折れるまで動かない。泥と雪に汚れたブーツが、石畳に根を張るように張りついていた。

 ソスヴァルド王が正面に立っていた。


 聖遺物の剣が光を放つ。


汝の名を記す者よノルデン・リブラ・エスターシュ


 聖句が響いた。腹腔の底から押し出された振動が冬の広場の空気を震わせ、剣のエーテル回路が青白く明滅した。光刃が敵の一団を薙ぎ、数メートルの空白が広場の中央に生まれた。王の髪と目にエーテル使用特有の光が走る。


 しばらくは王の光刃が広場を支配した。聖句が唱えられるたびに空白が生まれ、その空白を従士団の歩兵が盾で押し広げていく。


 だが三度目の聖句を境に、ソスヴァルド王の剣が悲鳴を上げた。ガラスを擦り合わせたような甲高い音が刀身から洩れ、光刃が不規則に明滅する。唱えるたびに声帯が軋む音がナナハルトの耳に届いていた。


 ハルグリムの演算も限界を迎えていた。右手の聖遺物が焼けるほどの熱を持ち、指先から白い煙が上がっている。


「中央、崩壊する。左翼を回せ。エルヴィンの部隊に――」


 ハルグリムの声が途切れた。演算が追いつかない。三千の敵を捌ききれず、唇の数値が途切れ途切れになっている。だが指示は途切れなかった。言いかけた言葉の続きを、別の声が拾った。


「了解」


 ディートリヒだった。


 ハルグリムの隣に立っていたはずの影が、もうそこになかった。


星の道を駆ける風エスターシュ・ヴェントス


 冷たく正確な詠唱と同時に、靴底が光った。短剣を逆手に持ち、低い姿勢で乱戦の隙間を縫うように駆け抜けていく。剣を振るわない。ただひたすらに、すり抜ける。風で前髪がひるがえり、普段は隠されている片目にエーテル適応者独特の燐光が走った。


 敵の振り下ろした斧の軌道の半歩手前を滑り、槍衾の穂先の間を紙一重で通過する。機動靴の速度が乗った残像が、広場の空気を一筋だけ裂いた。


 数秒でエルヴィンの部隊に辿り着き、ハルグリムの指示を伝え、踵を返した。戻りは別の経路で、今度はブランドの位置を修正する伝令を届ける。三分の限界稼働を守り、広場の隅で立ち止まって排熱を待つ。懐中時計を一瞥し、靴底の温度を指先で確認する。


「排熱完了。次の稼働まで、四十秒」


 息を切らしながら、声だけは正確だった。そしてまた走り出した。ハルグリムの頭脳が吐き出す指示を、ディートリヒの脚が物理的に戦場の隅々へ運んでいく。考える速度と走る速度が、一つの回路として噛み合っていた。


「退路が塞がれるまで、あと二分」


 冷却のために足を止めたディートリヒの声が、広場を切り裂いた。懐中時計の蓋を押さえる指が震えている。この戦場で最後まで時間を数え続けている。


 たが、崩壊は、一瞬だった。

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