透明な回廊
「巡回に行くわ」
エリに名前を呼ばれたのは、擬似空の光がまだ薄い時間帯だったと思う。都市の振動が一段静かな、早朝の気配だった。
寝台の横にエリが立っていた。扉が開く音を聞いていない。足音もなかった。その少女がいつからそこにいたのかは分からなかった。
眠っていた者の横に、当然そこにいるという顔で立っている。
その在り方が眠りの続きのように自然で、ナナハルトは叫ばなかった。
来るかとも、一緒に行こうとも言わなかった。ただの告知だ。
起き上がると、エリはすでに通路に向かって歩き出していた。
誘われたのか、ただ事実を伝えただけなのか判断がつかないまま、ナナハルトは上着を引っ掴んで後を追った。
気がつくとエリの前に、円筒形の内側が淡く光を帯びた、人の身長ほどの径を持つチューブの入口が開いていた。エリがその中に踏み込んだ。
後に続いた瞬間、靴底が滑る。身体が前に引き込まれ、気づけば移動していた。
足元に何もなかった。
「わっ。何だこれ」
下を見るな、と身体が命じた。だが視線はすでに落ちていた。
透明な床の下に、都市の全景が広がっていた。
チューブの内壁は薄く光を帯びた透明な素材で、厚さは指二本ほどに見えた。その一枚を隔てただけで、そこから先は何もない空間だった。
「底がない」
呼吸が浅くなるのが分かった。手足から血の気が引き、指先が冷え切っていく。
ナナハルトはチューブの壁に両手を押し当て、へばりつくように身体を固くした。触れていても落ちることはない、と頭では分かっている。
分かっているが、手のひらをぴたりと壁に当てていないと、背骨の奥から何かが這い上がってくる感覚が続いた。
移動は無音だった。風もなく、摩擦もなく、このチューブはナナハルトの体を都市の上層へ向けて、ただ滑らかに運んでいく。
不意に、目の前を影が横切った。
ナナハルトの顔のすぐ横、透明な壁の向こう側を、白い羽ばたきが通り過ぎていった。鳥だった。鳩によく似た丸みのある鳥が、チューブのすぐ外側を滑空し、都市の下方へ向かって降下を始めている。
鳥は、壁のすぐ内側に人間が張り付いていることに、まったく気づいた様子がなかった。
「……見えてないのか」
荒くなっていた呼吸が、声を出したことで少しだけ落ち着いた。
鳥の羽ばたきという見知った動きを目で追ったせいで、高さへの恐怖が薄れ、もっと見てみたいという気持ちが湧き上がる。
「光の帯にしか見えないわ。外部からは」
エリの声が、少し離れたところからした。
「この外殻は、内部の光を乱反射しているの。都市の側から見上げれば、ここは天蓋を走る一本の眩しい線。中にいる人間の姿は、光に埋もれて見えないわ」
ナナハルトは少しだけ壁から顔を離した。中の人間が見えないからといって落ちない理屈にはならないが、身体は不思議と強張りを解いていた。




