国境の煙
二度目の急報は、楽器盾を調律している最中に来た。
工房の作業台に盾型変奏器を伏せ、弦のテンションを指先で確かめていたナナハルトの耳に、兵舎の方角から蹄鉄が石畳を叩く音が飛び込んできた。一頭。速い。馬体が揺れている走り方――乗り手が消耗し切っている時の、制御を失いかけた疾走だった。
弦から手を離し、工房の窓に寄った。西門の方角から泥まみれの伝令が馬ごとよろめくように駆け込んでくるのが見えた。
「国境を越えてきた。二百はいる」
エルヴィンの声が中庭を横切って工房まで届いた。すでに完全武装を終えている。この老騎士は経験で動く。急報の蹄音を聞いた瞬間に、考えるより先に鎧を締めていたのだろう。
ナナハルトは楽器盾を背負い直した。
王に完成を促されてからは、訓練の合間にこつこつと調整を続けてきた。
エーテル障壁の精度を上げるために弦の張りを微調整し、共鳴板と金属外装の接合部を何度も叩き直した。鋲一本を逸らす程度だった防壁が、今は木剣の一撃を弾き返す程度には育っている。矢にはまだ不安が残る。だが盾としての物理的な硬さは、あの超硬質合金そのものが保証していた。
馬繋ぎ場で栗毛の軍馬の腹帯を締めていると、兵舎の前からブランドが両手剣を肩に担いで歩いてきた。ナナハルトが一人で鐙に足をかけるのを見て、顎をしゃくった。
「おう、チビ。一人で乗るのか」
「はい」
鞍に跨がった。内腿が革の縁に当たり、訓練で覚えた鈍い圧迫が戻ってくる。腿の筋が鞍の形に馴染むだけの日数を、まだ稼げていなかった。手綱を握ると、革紐越しに馬の口元から伝わる微かな振動があった。前足が地面を踏むときの間隔、首が沈むときの呼吸の重さ。それは音楽の流れをつかむのに似ていた。身体で拍を刻む。その拍に預ければ鞍の上の揺れが暴れなくなることを、この数日の訓練でようやく掴み始めていた。
「力みすぎだ」
ブランドが馬を並べながら短く言った。
「訓練より速度が出る。もっと身体を倒して馬に預けろ。力を抜いたほうが上手くいく」
肩の力を抜こうとしたが、楽器盾の重さが背中にかかる分だけ重心が後ろに引かれ、馬が一歩踏み出すたびに尻が鞍から浮きかけた。馬の首筋に手を伸ばし、短く刈られた鬣の根元に触れた。体温と脈拍が、手袋越しに指先へ伝わってくる。
「下手でごめん」
戦闘のために選ばれた馬だ。ナナハルトは馬が気の毒になって思わず謝罪をした。声は風に削られて半分も残らなかったが、馬は耳を片方だけ後ろに倒してナナハルトの方を向け、短くブルルと鼻を鳴らした。次の一歩から、揺れが僅かに柔らかくなった。初心者の不安定な重心に、馬のほうが歩幅を合わせてくれている。
アデルベルトが馬を寄せてきた。短い赤髪を風に揺らし、剣を腰に差している。古くとも手入れの行き届いた真っ直ぐな刀身が、冬の朝の光を鈍く返していた。あの焚き火の夜に語った男の剣だった。
視線が交わった瞬間、アデルベルトは短く顎を引いただけだった。言葉は要らなかった。
従士団が門を出た。馬蹄が凍った街道を叩き、白い息の列が冬の空に伸びていった。
煙の匂いで戦場が近いと知った。
街道の先、丘陵地帯の向こう側に黒い煙が三筋立ち昇っていた。集落か、街道沿いの宿場か。風向きが変わるたびに焦げた木材と獣脂の混じった臭気が鼻を突き、ブランドの馬が短く嘶いた。
「あそこが国境の防衛線だ」
丘の稜線でエルヴィンが手を上げ、部隊が止まった。
眼下に広がる谷間の街道に、武装した人間の群れが蠢いていた。革の胸当てに鉄兜、統一された軍装ではないが、リンデン村の傭兵くずれとは明らかに質が違う。隊列を組んで動いている。荷車を囲む一団、街道の両脇を固める槍兵、そして後方に馬に乗った指揮官らしき影が三つ。
「二百、か。もう少しいるかもしれないな」
ハルグリムの声が背後から聞こえた。馬上で地形を見渡し、何かを計算するように唇が動いている。
「丘の北側から回り込めば、街道を塞げる。正面と側面で挟む形になる」
ソスヴァルド王が馬を並べた。
「ハルグリム、部隊の割り振りを」
「ブランドとエルヴィンが正面の先鋒。盾持ち――ナナハルトを前列に。アデルベルトはナナハルトの直後。ロルフは丘の上から射線を確保。ディートリヒ」
ディートリヒが顔を上げた。
「側面を切り崩してくれるかい。例の靴で」
ディートリヒは一瞬だけ視線を落とし、腰に括りつけた黒い靴底の輪郭に触れた。実戦で使うのは今日が初めてだった。
「三分が限界です。それ以上は排熱で足が焼けます」
「十分だよ。三分で崩せなければ、設計が間違っている」
ハルグリムの声には慰めも激励もなかった。計算結果を読み上げるような平坦さ。ディートリヒは短く頷き、懐中時計を制服のポケットに押し込んだ。
「先行します」
一言だけ残し、彼女は手綱を引いて右翼の斜面へと駆け下りていった。
「前衛、丘を下れ! 平地に降りて盾を構えろ!」
ブランドの野太い号令が冬の空気を震わせた。
指示に従い、歩兵部隊が丘を駆け下りる。平坦な街道の手前で馬を止め、ナナハルトは鞍から飛び降りた。着地の瞬間、凍った地面が靴底を鋭く突き上げる。楽器盾を左腕に通して革紐を前腕に二重に巻き、右手を弦の位置に添えた。指先の感覚が手袋の中で鈍っている。弦の張りを確かめる指が、こわばって滑った。
正面に、敵の先頭集団が見えた。こちらに気づいている。槍の穂先がいっせいに動き、号令のような怒声が谷間に反響した。五十歩の距離が、地面を揺らす足音のたびに縮んでいく。三十歩。複数の人間の体重が凍った泥を踏み砕く振動は、リンデン村で相手にした七、八人の傭兵とは桁が違う質量だった。汗と鉄錆の混じった臭気が風に乗って鼻を刺し、呼吸が浅くなった。
ナナハルトが弦を弾く。楽器盾の外装が弦の振動を拾い上げ、増幅し、空気を圧縮した。盾の前面にエーテルの障壁が形成される。薄い、震える壁。工房で生まれた時よりずっと厚く、だがまだ脆い。指先の力加減一つで密度が変わる、不安定な防壁。
「それでも、防ぐ」
先頭の兵士が槍を突き出した。穂先が障壁に当たった瞬間、金属が硝子を叩いたような甲高い音が弾けた。槍が逸れ、兵士の腕が弾かれて体勢が崩れた。
二本目、三本目と続けざまに衝撃が走り、弦を押さえるナナハルトの指にそのつど反動が跳ね返ってきた。歯を食いしばり、腕の骨が軋むのを堪えたが、肘から肩にかけて鈍い痛みが溜まっていく。
ついに槍が障壁を貫通した。穂先がナナハルトの右肩をかすめ、革鎧の表面を裂いた。血が滲んだ瞬間に腹の底が冷えた。
「角度によっては防げないか。でも、集中するしかない」
集中が途切れれば崩れる。盾を抑えながら弦を掻き鳴らした。障壁が厚みを取り戻し、次の突撃を弾き返す。
「よくやった。隙が、あればいけるッ」
その隙間を、アデルベルトが駆け抜けた。障壁が敵の体勢を崩した一瞬を逃さず、剣を低く構えて突っ込んでいく。磨き上げられた真っ直ぐな刀身が最初の兵士の槍柄を叩き折り、返す刃が二人目の肩口に食い込んだ。
ナナハルトが弦を弾き、障壁が敵を弾き、その隙にアデルベルトが飛び込む。言葉を交わす暇はなかった。盾と剣の間を視線だけが行き来し、リンデン村の焚き火で交わした言葉よりもずっと確かなものが、鉄と血の匂いの中で繋がっていた。
右翼の空気が裂けた。ディートリヒが、着地ごとに寸分も狂わない体重移動で槍兵の横列をすり抜けた。機動靴の靴底からエーテルの青白い光が断続的に漏れ、凍った地面を蹴るたびに泥と雪が飛散する。直感ではなく理詰めの高速機動が、敵の側面を削り取っていた。
正面でブランドの大剣が唸り、敵兵の盾ごと人間を押し潰す衝撃音がナナハルトの鼓膜を叩いた。
頭上をロルフの矢が唸って過ぎ、逃走しかけた兵士の足元で石畳が弾けた。
防衛線の最前列ではエルヴィンの大盾が地面に突き刺さったように動かず、その背後でソスヴァルド王の聖句が一度だけ短く響いた。
王の剣が弧を描くと青白い光刃が敵の前列を断ち、視界の端で黒い鎧の兵士たちが崩れ始めた。
後方の指揮官の馬が反転し、それを見た兵士たちが武器を捨てて走り出した。追撃の号令をエルヴィンが出した。逃げる敵と反転して襲いかかる敵を瞬時に見分ける老騎士の目は、十年以上の戦場が研いだものだった。
ナナハルトは弦から手を離した。指先の感覚がほとんどなかった。手袋の中で指が震えている。寒さではない。弦を押さえ続けた筋肉が限界を訴えていた。楽器盾の表面に亀裂はない。超硬質合金は傷一つ負っていない。だが弦が一本、切れかかっていた。テンションの限界を超えて引っ張り続けた四弦目が、巻き線の隙間からほつれている。
アデルベルトが戻ってきた。剣の刃に赤黒いものがこびりつき、息は荒いが足取りは確かだった。
「……腕、大丈夫か」
右肩の裂けた革鎧を見て、短く聞いた。
「かすっただけだ」
「嘘つくなよ。血が出てる」
アデルベルトは革鎧の裂け目を覗き込み、懐から出した布を無造作に押し当てた。乱暴だが速かった。
「お前の盾、よく持ったな」
「何とかなった」
「びびらなかったんだ。そういうのが大事なんだよ」
血と泥にまみれた顔の唇の端がかすかに上がっていた。




