表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

63/65

楽器盾

 工房はウィンターガルド従士団兵舎の裏手にあった。


 元は馬具の修繕場だったが、ナナハルトが使い始めてからは金属粉と革と半田の匂いが堆積し、鍛冶場のような空気に変わっていた。壁には工具が整然と並び、作業台の上に小型四弦変奏器ミニアチュール・ヴィェランが横たえられている。

 収穫祭の夜にエリに聴かせた、あの楽器だ。王城の地下で七年止まっていた揚水機を叩き起こしたのも、この四本の弦だった。


 ケース一体型のリュック構造を外し、楽器本体を裸にした状態。楽器の胴——音を響かせるための木箱が分解され、内部の真鍮パイプと弦の接合部が剥き出しになっていた。


 その傍に、黒みがかった銀色の金属板が置いてある。今日の午前にソスヴァルド王から下された聖遺物の断片。先年、別の探索者が地上で発掘したものだと王は言っていた。地上のどの砥石でも研げず、鍛冶師が匙を投げた金属。


 工房の奥、壁際に積まれた木箱の上に、エリが座っていた。


 エリはナナハルトが工房に入った時にはもうそこにいた。いつからいたのかは分からない。聖遺物の調整にはエリの観測が伴う。揚水機の修理以来の暗黙の了解だった。静かに、ただ座っている。


 午後。練兵場からは同僚たちが打ち合う木剣の音が絶え間なく響いてくる。

 天窓から差し込む冬の陽光と、時折ちらつくエーテル回路の残光が室内を照らしていた。この作業は集中力が必要だった。金属の結晶構造を指先で読み取る繊細な工程は、横で別の誰かが話しかけたり、無神経に金槌を叩いたりしていたら台無しになる。

 エリは物音一つ立てなかった。呼吸さえ聴こえない。この工房で唯一、彼の手元を決して狂わせない観測者だった。


 四本の弦が共鳴箱の底板から天板へと張られ、その間に六本の真鍮パイプが並んでいる。弦の振動がパイプ内部の空気柱を共鳴させ、楽器単体とは思えない厚みのある音を生み出す構造だった。クレーナが設計の元を作り、ナナハルトが人間の指で弾けるように改造した、世界に一つだけの楽器。


 金属板を楽器の外装として使う。背面の装甲板として纏わせれば、地上のどの武器でも砕けない壁が楽器の背中につく。そうすればこの楽器は――盾になる。


 問題は加工だった。地上のどの砥石でも研げないと、ハルグリムは言った。鍛冶師が形を変えられなかったと。時間があれば、地下都市に行って、クレーナの工房の道具を使いたかった。

 だがナナハルトの指先には、クレーナに仕込まれた別の技がある。


 金属板の表面に指を当て、微弱なエーテルを流した。金属がわずかに温まる。指の腹が、表面下の結晶構造の方向を読み取っていく。この金属は均一ではない。内部に結晶の「目」がある。木材に木目があるように、この合金にもエーテルが通りやすい方向と通りにくい方向がある。


「目に沿って切る……。クレーナさんなら、そうするだろうな」


 独り言が漏れた。壁際の空気がわずかに揺れた気がした。『クレーナ』の名前が出た、その時だけ。


 研ぎはヤスリを動かすだけでは意味がない。エーテルの振動を結晶の境界に集中させ、金属の粒子配列そのものを組み替える。調律と同じだ。乱れた波を整えるのではなく、金属の内部構造の波を制御して、欲しい形に導く。


 工具が金属板を削ると、通常の金属加工とは明らかに違う高く澄んだ音が工房に響いた。金属粉が指先に積もり、爪の隙間に入り込む。ナナハルトは息を止め、金属板の曲面と楽器背面の隙間を指の腹で確認した。


 何時間経ったのか分からなかった。天窓から差し込む冬の光が弱くなり始め、金属板の成形を終えて楽器の背面に合わせた鋲止めの段階に入っている。一人で鋲を打つのは骨が折れたが、木の当て木を挟んで裏から金槌で叩き、一本ずつ、慎重に留めていった。


 弦を張り直し、テンションを確認しながら一本ずつ指で弾いて音を聴いていく。一弦から順に弾き、四弦目に指をかけた時に音が変わった。あの超硬質合金が真鍮パイプとは異なる共鳴を返し始めている。地上の金属にはない密度の高い振動が弦の音を拾い上げて増幅し、工房全体に広げていく。一本の弦から、二重三重の倍音が重なって立ち上がった。


 四本の弦を同時に掻き鳴らすと、工房の空気が震えた。壁面のランタンの炎が揺れ、作業台の上の金属粉が細かく跳ねて天井の石材の隙間から埃が落ちてくる。暴力的な音ではない。密度が高いだけだ。振動が空気を圧縮して、目に見えない壁のようなものが楽器の前面に一瞬だけ形成され、消えた。エーテルの障壁。薄く、脆く、まだ実戦で矢を弾けるような強度はないが、確かにそこに壁が生まれていた。


 まだ全然弱い。もっと精度を上げないと盾としては使い物にならないし、調律で出力を絞って光が目立たないようにしなければならない。


 だが、これが盾型変奏器ヴィェラン・シールドの産声だった。

 楽器であり、盾であり、エーテルの調律器である、世界に一つの防壁。


 壁際の木箱の上で、エリの姿勢が変わっていた。膝の上に置いていた両手が僅かに持ち上がり、障壁の消えた空間の余韻を追うように首が動いている。

 ナナハルトは汗を拭い、楽器盾を膝の上に乗せた。


「エリ。どう見える」


 エリは木箱を足音もさせずに降りる。石畳の上を滑るように近づき、楽器盾の表面に手袋の指先を当てた。金属の上を横に一度なぞり、弦の付け根で指が止まる。


「この金属、都市の第七隔壁の外殻と同じ組成ね。……よく、形を変えられたわ」


「クレーナさんに教わった方法で、結晶の目に沿って切ったんだ」


「クレーナの技術。……あの子のやり方が、あなたの手に残っているのね」


 エリの声は平坦だったが、「あの子」という呼び方には管理者の語彙にないはずの柔らかさが混じっていた。地下都市の四柱の一人をそう呼ぶのは、エリだけだろう。


「揚水機の時と同じ要領で、回路内のエーテルの波を音で整えてみた。弦の振動と金属の共鳴を同調させて、エーテルの漏れをできるだけ絞ってある。……君への負荷は、どう見える」


 エリの指先が弦の付け根から離れ、パイプの接合部に移った。手袋の指が接合部の一つ一つを辿り、回路の内側を確かめるように数秒の走査を終えて止まる。


「抑えられている。あなたの音が回路と同調しているから、エーテルの漏出がほとんどない」


 一拍の間があった。エリにとっての一拍は、人間の数秒に相当する処理時間。


「波の形が、都市に似ている。いい仕事ね」


 ナナハルトの肩から、少しだけ力が抜けた。


「でも、使えないわ。あなた以外は」


「……え?」


「この回路は、あなたの音楽と同調することで消費を抑えている。あなたの弾き方、あなたの指の圧、あなたの周波数。それが鍵になっているの。別の人間が触っても、同調しない。回路が起動しないか、暴走するわ」


 ナナハルトは楽器盾の縁に手を置いた。金属が弦を通じて指先の体温を吸い込んでいく。


「それでいいよ。僕が使う。僕だけが使うなら、そのほうがいい」


 エリの視線が、楽器盾からナナハルトの顔に移った。


「都市の部品が、こうして戦いの道具になる。充分に予測されたことね。王の剣も同じ。あなたのこれも、同じよ」


「武器じゃないよ」


 ナナハルトの声が、自分で思ったより強く出た。


「これは護るための盾だ。誰かを斬るためのものじゃない」


 エリは答えなかった。暗がりの中で、山羊の横長の瞳孔がナナハルトを見据えている。瞬きもせず、ランタンの炎を水平に映したまま。


 止めろとは、言わなかった。


 弦に指を乗せ、四本を順に弾いた。一弦、二弦、三弦、四弦。超硬質合金が共鳴を返し、石壁の工房に低い唸りが満ちていく。音が石壁に反射して消えていくまで、エリは微動だにしなかった。


 ナナハルトは完成した盾に手を置いた。金属の表面に、指先の体温だけが僅かに残っていた。都市の記憶と、自分の音楽が、この一枚の中で重なっている。



 翌朝、ナナハルトが完成した楽器盾を参謀室に持ち込むと、ソスヴァルド王とハルグリムが既に待っていた。ディートリヒが帳面を開いて控え、壁際の暗がりにはいつものようにエリが立っている。


「できたのか」


 ソスヴァルド王が椅子から身を浮かせた。まっすぐに楽器盾の前に来て、黒銀の表面を指で叩いた。二度、三度。叩くたびに、口元が緩んでいく。


「鍛冶師が匙を投げた金属を、お前はどうやって加工した」


「エーテルで結晶の配列を読んで、目に沿って切りました」


「……なるほど。力ではなく、波で」


 ソスヴァルド王が深く頷いた。

 お前らしい、とは言わなかった。代わりに、顎でハルグリムを促した。


 ハルグリムは既に長椅子から身を起こし、楽器盾の裏面に回り込んでいた。弦の配置、パイプの接合部、金属板との境界線を瞬きもせずに追いながら、唇が音のない数字を刻んでいる。


「起動させてみてくれ」


 穏やかな声だったが、ハルグリムの瞬きの回数がさっきから極端に減っていた。


 ナナハルトが盾を左腕に通し、右手で弦を掻き鳴らすと、音が参謀室の石壁に反響した。机の上の書類が微かに震え、ディートリヒのインク壺の表面に波紋が走る。楽器の前面に薄いエーテルの障壁が一瞬だけ形成され、空気が歪んで消えた。


 ソスヴァルド王の手が、剣の柄を握るように楽器盾の縁を掴んだ。


「防壁か。音で、壁を作るのか」


「まだ弱いです。鋲一本逸らせるかどうかで、矢は無理です。でも、調律で精度を上げていけば、実戦でも使えるようになります」


 参謀室の石壁に弦の残響がまだ薄く漂っている。背後からハルグリムの声が聞こえた。楽器盾の裏面から手を離し、腕を組んでいる。


「軍に配備できないのが惜しいほどの技術だね」


「扱えないの。ナナハルト以外は」


 壁際の暗がりから、エリの声が落ちた。


「あの防壁を維持するには、正しい音楽での同調が必要なの。波長が合わなければ回路は暴走するか、沈黙する」


「なるほどね。だから君は今の起動に際して、『聖句』を唱えなかったか」


 ハルグリムの目が細まり、指先が帳面の上で止まったまま動かない。


「そうか。ならば」


 ソスヴァルド王が楽器盾の黒銀の表面を掌で撫でた。鍛冶師が匙を投げた金属の硬さを、指の腹で確かめるように。


「お前は、お前のために仕上げるといい。時間をやろう」


「はい。これで、皆を護ります」


 ナナハルトは盾を抱く腕に力を込めた。金属の重みが、骨を通して肩まで沁みている。


 ハルグリムが無言でディートリヒに目を向けた。ディートリヒの帳面にペンが走る音だけが、弦の余韻の消えた参謀室を満たしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ