秒針と靴底
「……これは誰が使うのがいいだろうか」
ソスヴァルド王が呟いた。靴底の噴出口を覗き込む目に、子供が新しい玩具を見つけた時に似た光が灯っている。
「この靴は、触れる人を選ぶみたいです」
ナナハルトは靴底に指を当てたまま言った。
「さっき陛下が触れた時は、回路が応えていました。ハルグリムさんの時も。でも、先ほど伝令の兵士が机に手をついた時、靴底が冷えたんです。金属の温度が一段落ちた。……回路が、その人の熱を受け取ろうとしなかったんだと思います」
「波長の固有値が一致する個体にのみ応答するということか」
ハルグリムが帳面から目を上げずに言った。ペン先が数字の横に『適性』と走り書きする音が、弦の余韻の消えた参謀室に響いた。
「ならばやはり私だな」
ソスヴァルド王の語尾が少し跳ねた。靴に視線を戻し、踵の噴出口を覗き込んでいる。
「論外です」
ハルグリムが語尾を強める。
「陛下。この国の王が実験中の靴で転倒して頭蓋を割った場合、ヴィンターガルドは翌朝から終わります」
「……言い方が気に入らんが、正論だな」
ソスヴァルド王が大きく息を吐いた。
「王が使わないとはいえ、私が走る理由もないか。私は後方支援だからね。ならばこれは、ナナハルト……いや、もう一人いるな」
ハルグリムの視線が部屋を一巡し、壁際に控えていた一つの影で止まった。
「ディートリヒ」
銀髪の副官が顔を上げた。帳面と懐中時計を握ったまま、数字を追っていた目が止まる。
「……私ですか」
「履いてみろ」
「意味がありません」
即答だった。声は平坦だったが、懐中時計を握る指の関節が白くなっていた。
「私にはエーテルの適性がない。それは私自身が一番よく知っています」
「君は以前、測定機に触れたとき、光を灯したことがあったね」
ハルグリムの声は静かだった。
「光だけは灯せる。ならば私は『適性はある』と考えているんだ。ただ履くだけなら転倒の危険もない。試してみる価値はある」
数秒の沈黙があった。暖炉の薪が爆ぜる音が、石壁に反響して消えた。それからディートリヒは帳面と懐中時計を机の上に並べ――帳面が先、懐中時計が横、正確に直角に揃えてから――無言で靴を受け取った。
「ディートリヒさん、一度やってみてください」
ナナハルトが促した。
「星の道を駆ける風」
ディートリヒが硬く澄んだ声で詠唱し、踵を踏んだ。
回路が一度だけ明滅し、点いた光がすぐに消えた。完全な起動ではない。だが微動だにしないはずの回路板が一瞬だけ応答を返したことを、ナナハルトの耳は逃さなかった。弱いながら確かに、エーテルの流れが回路の入口まで届いている。
「適性がある」
ハルグリムが短く言った。
「……ええ。昔から、聖遺物を試すと一瞬だけは光るのです。しかし、ただそれだけで終わります」
ディートリヒの靴底からの光はすっかり消えていた。声に抑揚はなかったが、「それだけ」という語尾の息が僅かに短かった。
「音は感じます。エーテルは回路に入ろうとしている」
ナナハルトは靴底の前に膝をつき、ディートリヒの足首のすぐ上に耳を近づけた。回路の微振動が、靴底の金属を伝わって空気を震わせている。弱い。だが形がある。
「でも、どこか合わない。回路が求めている波と、ディートリヒさんの波の幅がずれている。エリ、どう見える?」
エリが壁際から近づき、靴底の回路を覗き込んだ。手袋の指先が回路の溝をなぞると、金属の温度が僅かに変わるのをナナハルトの耳が拾った。
「この人の波長は弱いの。でも形がある。形があるなら、合わせられるわ」
ナナハルトの指が止まった。波長が弱いなら、回路の入り口を絞ってやればいいのだ。大きな門を通れない人間のために、体に合った小さな扉を用意してやる。
「ディートリヒさん、もう一度詠唱して、軽く踵を踏んでもらえますか」
ディートリヒが聖句を唱えて短く踏むと、かすかな振動がナナハルトの指先に伝わった。ハルグリムの力強い波とも王の圧倒的なうねりとも違う、弱いが固有の形を持った、細く研ぎ澄まされた正確な振動だった。懐中時計の秒針が刻むリズムに似ていた。一切の揺らぎがない、均質で冷たい脈拍。
ナナハルトは回路板の接続端子を一つずつ回し、閾値を下げていった。端子が回るたびに回路の応答が変わり、金属の奥から微かな高周波の鳴きが漏れる。指の腹が端子の抵抗を読み取り、一つ回しすぎれば回路が暴走し、一つ足りなければ信号が届かない境界を探っていく。エリの指先が回路の反対側から波の変化を読み、小さく頷いたり首を振ったりする。二人の手が靴底を挟んで、見えない糸を引き合っていた。
「もう一度」
ディートリヒが再び試す。
回路が灯り、今度は消えなかった。靴底から漏れた淡い青白い光が、参謀室の石畳を薄く照らしている。
ディートリヒの唇がわずかに開いた。息を一つ呑み、喉仏が上下するのが見えた。だがすぐに口を閉じ、視線を靴底の光に戻す。感情を言葉にする前に、事実として確認する。この人の回路もまた、秒針のように正確だった。
「起動しました。……しかし、体重の動かし方が分からない。直感で操れる者は身体が勝手に動くのでしょうが、私にはその感覚がありません」
ナナハルトは自分の足を見た。自分が機動靴を使う時、踵を蹴る角度も、体重移動のタイミングも、エーテルの噴出と着地の間隔も、すべて考える前に身体が動いていた。だがディートリヒは違う。この人は言葉にしなければ動けない。ならば、言葉にすればいい。
「右の踵を踏んでから、左の爪先に体重を移すまでの間隔を、心臓の一拍に合わせてください。それより速いとエーテルが追いつかない。遅いと噴出が途切れます」
「一拍以下ですね」
ディートリヒが懐中時計を取り上げ、蓋を開いた。秒針の動きに目を落とし、唇の中で拍を刻んでいる。自分の心拍と秒針の周期を照合しているのだ。身体の感覚を、時計の精度で校正しようとしている。
「踏み出す時は膝を曲げずに、足首だけで地面を押してください。膝を使うと力の方向が散ります」
「足首のみ。了解です」
懐中時計の蓋を閉じる音が、乾いた金属音を立てて参謀室に落ちた。
参謀室の扉を押し開けると、冬の廊下の空気が暖炉の温もりを剥ぎ取っていった。石壁が体温を吸い込む冷たさが、むき出しの首筋に纏わりつく。靴底の金属が廊下の石畳を叩くたびに、硬く乾いた音が回廊の奥まで反響した。ナナハルトの前を歩くディートリヒの背中は、靴を履いたまま歩幅を変えず、一歩ごとの接地時間まで均等に保っていた。歩く間もこの人は身体を計測している。
中庭に出た。
冬の陽光が低く差し込み、石畳の表面に張った薄い霜が白く光っている。四方を城壁に囲まれた矩形の空間に、乾いた風が吹き抜けるたびに、ナナハルトの吐く息が白い塊になって崩れた。遠くの練兵場から木剣が噛み合う音が断続的に聞こえてくるが、中庭には人影がなかった。ソスヴァルド王が回廊の柱に肩を預け、ハルグリムが帳面を開いたまま立ち止まっている。エリはいつの間にか回廊の暗がりに移動していた。
ディートリヒが中庭の中央に立ち、足元の霜を一度だけ踏みしめた。靴底の金属が霜を砕く、細かな音がした。懐中時計を確認し、蓋を閉じてポケットにしまう。両腕を体側に落とし、肩の力を抜いた。その姿勢の変化だけで、帳面とペンに縛りつけられていた事務官の気配が消えた。
「聖句を」
ナナハルトが声をかけた。
「星の道を駆ける風」
踵が石畳を叩いた。
靴底の金属が蒼白い光を噴き、霜が弾けて微細な氷の粒が足元から吹き上がった。
最初の一歩で石畳に亀裂のような衝撃音が走り、ディートリヒの身体が前方に射出された。ぎこちなかった。二歩目で膝が折れかけ、三歩目で靴底の光が明滅し、足が地面に引っかかるように減速した。
ナナハルトのように身体が先に動くのではなく、頭で計算した結果を四肢に強制している走法だった。だが四歩目で踵と爪先の間隔が秒針の精度に嵌まった瞬間、靴底の光が安定し、石畳を蹴る足音の質が変わった。硬く重い着地音が、鋭く軽い跳躍音に変わっていく。
馬には及ばない。だが人間の脚では絶対に出せない速度で、銀髪の副官の影が中庭を横切った。靴底が石畳を離れるたびに排熱が霜を溶かし、足跡の形に濡れた黒い石畳が点々と残る。加速の中で風が前髪をさらい、隠されていた左目が露わになった。緑の瞳だった。ハルグリムと同じ色の眼が、走る速度の中で燐光のような微かな光を帯びている。
帳面と懐中時計に縛りつけられる前の、短剣使いの遊撃手としてのこの人の身体が、そこにあった。力みのない、低い重心。風を切る腕の角度。一拍ごとに正確に石畳を蹴り、着地し、また蹴る。計算で組み上げた走法が、もう計算では追いつかない速度に達していた。
二十秒ほどで中庭を一周し、ディートリヒは出発点に戻った。靴底の光が消え、排熱で靴の表面から薄い湯気が立ち昇って冬の空気に散る。足元の石畳が、靴底の熱で霜を溶かされて黒く濡れていた。
息が上がっていた。額に浮いた汗が冬の空気に冷やされて白い湯気に変わり、前髪に張りついている。だが懐中時計をポケットから取り出し、蓋を開く手は揺れていなかった。
「連続稼働、一分四十二秒。そこで集中力の限界が来ました。排熱も問題です。靴底の温度が上がりすぎる。連続稼働の実用上限は三分が妥当でしょう」
「緊急時の伝令手段としてなら、計算に組み込めます。三分あれば戦場の端から端まで走れる。それだけの価値はある」
ハルグリムが帳面に数字を書き込みながら頷いた。
「充分だ。いや、充分以上だよ」
ハルグリムの声がナナハルトに向いた。
「君の調律で、回路が応えなかった遺物が動いた。これは大きいよ。ナナハルト」
ナナハルトの胃の底が、ちりりと痛んだ。この靴が動くたびにエリュシオンからエーテルが引かれる。調律で消費を絞ったとはいえ、ゼロにはならない。そして今、また一人、回路に熱を通せる人間が増えた。ハルグリムの帳面に書き込まれていく数字の列が、エリの身体から汲み出されるものの計量に見えて、ナナハルトは目を逸らした。回廊の暗がりに立つエリの方を見ることができなかった。
ディートリヒは靴を脱ぎ、丁寧に揃えてナナハルトに返した。靴を手渡す指先が甲の革にもう一度だけ触れてから離れた。
「……ありがとう。あなたの技術がなければ、これは私には使えなかった」
いつもの事務的な口調とは違う声だった。ナナハルトは靴を受け取り、金属の靴底がまだディートリヒの足の熱を残しているのを掌に感じた。
ソスヴァルド王は中庭の柱の傍に立ったまま、最初から最後まで黙って見ていた。ディートリヒが走り終えた後、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ナナハルト。お前に褒美を出す」
従者に目配せし、従者が布に包まれた重い塊を両手で運んでくる。布が開かれると、抱えるほどの大きさの、黒みがかった銀色の金属板が現れた。表面は磨かれているが、磨くことを拒むような硬質な光沢が返ってくる。持ち上げるとずしりと重く、叩けば硬く短い音がした。鉄でも鋼でもない。ナナハルトが知る地上のどの金属とも、音が違う。
「先年、別の探索者が凍土で掘り出した聖遺物の断片だ。鍛冶師に加工を頼んだが、地上のどの砥石でも研ぐことすらできなかった」
ハルグリムが半歩前に出た。
「つまり地上の武器では破壊できない。盾にするなら、これ以上の素材はないだろうね」
「盾なんかどうだ」
ソスヴァルド王が腕を組んだまま言った。
「お前は盾持ちになると言ったそうだな。アデルベルトから聞いた」
ナナハルトが金属板を両手で受け取ると、指に触れた瞬間に微かな振動が伝わってきた。エリュシオンの床を歩いた時に足裏から伝わってきた、あの脈拍に似た波動。この金属はあの都市で生まれたものだ。地上に出てなお、都市の記憶を残している。
「ありがとうございます」
言葉が上手く息に乗らなかった。金属の重さが両腕にじわりと沁み、手放せなくなっている。
「どう使うかは、お前に任せる」
ソスヴァルド王の声は穏やかだった。問いかけの形すらとらず、ただ信頼を置くように。




