表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

61/63

宝物庫の靴

 参謀室の長机の上に、一足の靴が置かれていた。

 黒みがかった金属の靴底に、蔦のような回路の溝が走っている。


 踵から爪先へ三本の細い筋が並走し、足裏の中央で合流した先に小さな噴出口が開いていた。革の甲は経年で毛羽立ち、紐を通す穴の真鍮が緑青を噴いている。

 だが、金属の靴底には腐食の痕一つなく、地上のどの鍛冶師の仕事とも違う、非人間的に均質な鋳肌が冬の陽を吸い込んでいた。


 ナナハルトの探索では決してみつけられなかった、完全な聖遺物だ。

 気がつけば膝が浮き、両手を机についていた。探索者であれば誰もが憧れる、部品ではない完璧な聖遺物。


 いまとなっては地下都市エリュシオンから持ち出されたものだと予測は付くが、それが正規の流通で出たものなのか、ここにあって問題はないのかが気になり、エリの方を見た。


 静かに部屋の隅に移動していたエリは灰緑のケープを深く被り、壁際の暗がりから一歩も出ずに立っている。靴を見ても何の反応も無かった。


 揚水機の修理以来、聖遺物の調整にはエリを同席させることになっていた。王城からの求めだったが、エリにとっても必要な場だったはずだ。異常なエーテルの漏出を追って地上に出てきた彼女にとって、聖遺物がどう扱われ、どれだけのエーテルが消えていくかを間近で測れる機会だった。


「先日のリンデン村でのお前の報告は受け取っている。私の剣のエーテルが半分以上、熱で逃げていたという話だったな」


 ソスヴァルド王の声が窓際から届いた。


「ハルグリムにも確認させた。お前の耳は正しかった。私としては見てもらいたいのだが……」


 王は肩をすくめて、ハルグリムに続きを促す。


「王の聖剣を新人にいきなり預けるわけにはいかないよ。代わりに宝物庫から持ち出してきた。」


 机を挟んだ向かい側で、ハルグリムが靴を持ち上げ、靴底の回路の溝を一筋ずつ辿って指をすべらせながら告げた。


「これは数年前に発掘された遺物だ。踵を踏めば短距離を高速で移動できる構造だが、一瞬しか動かない。実用性に欠けていると見て長らく保管していたものだよ」


「まず履いてみろ、ナナハルト」


 ソスヴァルド王は少し楽し気に靴を覗き込んでいる。落ち着いたように見えて、この人は案外好奇心が旺盛なのだとナナハルトはこの所、気がついてきた。


「見てみます」


 ナナハルトは靴を手に取った。靴底の回路に指を当てると、金属を通じて微細な振動が伝わってくる。エリュシオンの回路に特有の脈動。都市の床を歩いた時に足裏から感じた、あの下地の響きと同じ波動が、地上に掘り出されてなお消えずに残っていた。


 革の紐を締め、金属の靴底が石畳に触れた瞬間、足裏から脛の骨を伝って振動が昇ってきた。回路が、足の温度を吸い込み始めている。


「聖句は『星の道を駆ける風エスターシュ・ヴェントス』だ。踵を踏み込みながら唱えれば起動する」


 ハルグリムが帳面から目を上げずに教えた。


 聖句。聖遺物を起動するための定型詠唱。ナナハルトにとっては、弦を一本弾けば済むことだった。だが聖句は王国における聖遺物運用の正規手順であり、ハルグリムの前でそれを省略する理由もない。


 息を吸い込み、聖句を口にした。


星の道を駆ける風エスターシュ・ヴェントス


 硬く唱えるつもりが、喉を通る間に音が丸くなった。詠唱というより旋律に近い、歌うような発声。ナナハルトの声帯が勝手にそうしてしまう。踵を踏み込むと同時に、靴底の回路が青白い光を噴いた。


 足裏に衝撃が走り、石畳を蹴る感覚が消えた。


 一歩目で身体が前方に押し出され、参謀室の長机の横を通過した。二歩目は考えるより先に足が出ていた。重心を落とし、踵から爪先へ体重を送る間隔を、足裏の振動が教えてくれる。回路の脈動に合わせて踏めばいい。都市の床を歩いた時と同じだ。あの時、足裏が都市のリズムを覚えた身体が、そのまま動いている。


 三歩で参謀室の端から端まで滑るように移動し、壁際で踵を浮かせて止まった。エリの傍だった。灰緑のケープの裾が、靴底の排気に煽られてわずかに揺れている。


「すみません。思ったより、速さが出て」


 小さく謝って振り返ると、ハルグリムの帳面のペンが止まっていた。ソスヴァルド王が窓際から一歩踏み出し、ナナハルトの足元を覗き込んでいる。


「初めて履いた聖遺物で、もう走れるのか」


 王の声に驚きの色があった。


「やはり、君は難なく扱うね」


 ハルグリムの声は静かだったが、帳面に走り書きするペンの速度が変わっていた。文字ではなく、数字を書いている。


「揚水機も、初回の接触で起動させた。聖剣の漏出を耳だけで検知した。今日は初めての機動靴を三歩で制御した。聖遺物との同調速度が、通常の適性者とは桁が違う」


 独り言のような口調だったが、ナナハルトに聞かせるための言葉ではなかった。帳面に事実を刻みつける、研究者の記録だった。


「消費量を測定しよう。そのまま少し動いてくれ」


 ハルグリムの指示で、ディートリヒが砂時計を返した。


 ナナハルトは参謀室の中を数往復した。靴底の回路が一歩ごとに応答し、踵から爪先へエーテルが流れるたびに足裏が熱くなっていく。快適ではあった。だが耳が拾っている回路の音には、揚水機と同じ濁りがある。エーテルの流れが回路の壁に衝突し、跳ね返り、渦を巻いて熱に変わっている。無駄に漏れ出す力の音が、弦の不協和音のように耳障りだった。


 砂時計の砂が落ちきった。


「エーテル消費量、記録完了。……数値は高いね。稼働時間にして推定一分が限界だ」


 ハルグリムが帳面の数字を指先で叩いた。


「回路の中が荒れている。流れが壁にぶつかって、熱として逃げている音がします」


 ナナハルトは靴を脱ぎながら言った。靴底の金属が、足の温度と排熱でまだ温かい。


「直せるか、ナナハルト」


 穏やかなソスヴァルド王の声が響く。


「エリ。回路の中、見てもらえる?」


 壁の暗がりに声をかけた。


 エリはケープの裾を揺らさずに歩み寄り、ナナハルトの手から靴を受け取った。手袋の指先が靴底の回路の溝をなぞるように動き、指が触れた箇所から順に回路の微振動が変調していく。エリが靴の全体像を把握するまで数秒、その間、彼女の周囲だけ空気の温度が一段落ちたように感じた。


「干渉のずれがあるの。二つの波の位相が合っていないのと——接合部で流れが滞っている箇所が三つ」


 エリは靴を机の上に戻し、指先で問題の箇所を示しながらナナハルトの方を向いた。


「低い方のうねりから整えて。音で、この波を拾えるわ」


 ナナハルトは背中の荷から、布に包まれた小型四弦変奏器ミニアチュール・ヴィェランを取り出した。揚水機を起こした時と同じ、彼の手になじんだ金属の楽器。靴ほどの小さな回路に四弦の重低音は過剰だが、指の弾き方一つで波長を繊細に絞り込める。


 エリが靴底に手袋の指を添えたまま、小さく頷いた。


 ナナハルトが一番太い弦を親指の腹で弾くと、抑えられた低音が参謀室の石壁に這うように広がり、その振動が靴底の金属を伝ってエリの指の下の回路を走っていく。


「もう少し上げて」


 エリの声に従って隣の弦を加えると、二つの音が重なった瞬間に靴底の回路の一筋が微かに震え、不規則だった明滅が音に引きずられるようにゆっくりと整い始める。


 揚水機は巨大な回路全体を一つの和音で叩き起こす力仕事だったが、靴の回路は繊細で、音の一つ一つが回路の別の部位に届くため、弾く指の力加減と弦を選ぶ判断を同時に求められる。


「そこ。その音のまま」


 エリの指先が靴底の接合部を押さえ、ナナハルトが音を維持する間に、回路を流れるエーテルの乱流が削られて流れが整っていく。不規則に明滅していた青白い光脈が、弦の振動に同調するように一定のリズムへと変わった。


 エリが指を離して次の箇所を示し、ナナハルトが音を変え、また波が整う。三箇所目は、エリが場所を示す前にナナハルトの耳が濁りの位置を拾っていた。一度合わせた相手の呼吸は、不思議と二度目からは読めるものだった。


 机の向かい側で、ハルグリムの帳面のペンが止まっていた。エリが回路を押さえ、ナナハルトが音を鳴らす。その二人の間を行き来する見えない同調の一部始終を、瞬きもせずに追う目だった。


 調律を終え、ナナハルトは再び靴に足を通した。紐を締め直し、踵を踏む。先ほどとは回路の応答が明らかに違った。足裏に伝わる振動から濁りが消え、一歩踏み出すだけで靴底のエーテルが滑らかに流れていくのが分かる。


「消費量、測定開始」


 ハルグリムの指示で、ディートリヒが砂時計を返した。帳面の数字を追う副官のペン先が走り、砂が細い腰をくぐっていく間、参謀室には弦の余韻だけが漂っている。


 砂時計の砂が落ちきった。


「エーテル消費量、従来比で五十八パーセントに低下。稼働時間は理論上一・七倍に延伸します」


 最後の数字で、ディートリヒの声がわずかに掠れた。ペンが止まり、数値を二度突き合わせてから顔を上げる。


 ソスヴァルド王は窓際に立ったまま表情を動かさなかったが、息を吸う間が先ほどより深かった。


「大した仕事だ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ