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初陣の後に

 日が暮れた。リンデン村の外れ、街道沿いの空き地に焚き火が組まれた。村から提供された乾いた薪が赤い炎を上げ、冬の闇に温かい輪を作っている。従士団の兵士たちは焚き火の周囲に散らばり、武器の手入れをしたり、干し肉を齧ったりしていた。


 ナナハルトは焚き火から少し離れた場所に座り、膝を抱えていた。


 手袋は脱いだ。血を洗い流すために雪で何度も擦ったが、爪の間にまだ赤黒いものがこびりついていた。水筒の水をかけても、薄い色が指の皺の奥に残った。擦りすぎて指先の皮がめくれ、冬の空気に触れてひりひりと痛む。

 あの男の顔が消えない。開いたままの目。空を映した、濁った瞳。狩りや獣の解体とはまるで違った。獣は死ぬ前にもがく。あの男はもがかなかった。ただ、口から空気が漏れて、重くなった。


 足音が近づいた。


 焚き火の光に照らされた赤い髪は暗い銅色に沈み、顔の半分が影に落ちている。アデルベルトだ。右手には自分の剣を持ち、左手に布を巻きつけていた。彼はナナハルトの隣に、許可も求めずに腰を下ろした。


 アデルベルトは剣を膝の上に置き、布で刃を拭い始めた。丁寧に、柄元から切っ先へ向かって一方向に布を滑らせていく。刃の表面に残った血と脂がゆっくりと拭き取られ、その下から刀身の地肌が現れた。


 柄の革は何度も巻き直されており、鍔の真鍮の紋様は擦り減って読めなくなっていた。だが、真っ直ぐな両刃の刀身は古くとも念入りに手入れされ、刃こぼれ一つ見当たらない。

 軍の支給品とも違うその剣は、また、若さに似合わない剣だ。


 アデルベルトは、そもそも町や村の人間と全く違う雰囲気がある。王やその周辺の人たちの空気。姿勢も良く、食事の際もどこか品が良かった。大人の間にいても物怖じしない態度。口調だけは乱暴だったがその奥にある育ちの良さが垣間見える。彼は氏族の長の家の出身か、あるいは他国の貴族出身のようにも見えた。だからこそ、その剣はより曰く付きに見えた。何代にもわたって大切に受け継がれてきた剣特有の、静かで重い反射があった。


「……その剣」


 ナナハルトが無言を破った。アデルベルトの手が一瞬止まる。布を持つ指に力が入り、すぐにまた動き始めた。


「親父の剣だ」


 次の一言を吐き出すまでには、わずかな間があった。焚き火が爆ぜて、火の粉が闇に舞い上がった。


「……親父は臆病者だった」


 アデルベルトは剣を拭く手を止めず、焚き火の方も見ず、淡々と続けた。


「王がこの北の地に来た時、親父はヴァルハイト家の長として、最初に膝を折って忠誠を誓った男だった。だが……いざ外敵が攻めてきた時に、親父は一族を見捨てて逃げた。裏切ったんだ。怖くなったんだよ」


 布が刃の上を滑る、かすかな音が続いた。ヴィンターガルドはまだ新しい国だ。母からも、昔はこの地域には国などなかったと聞いていた。ソスヴァルドがバラバラだった氏族をまとめて、国を興した、と。アデルベルトの家はその氏族ひとつだと伺えた。


「王は怒らなかった。親父が逃げた後もヴァルハイト家を潰さず、一族を飢えから守ってくれた。ブランドさんが、雪の中を走り回って、凍えた爺さんや子供たちを一人ずつ引きずって安全な場所に運んだと聞いている」


 アデルベルトは刃に息を吹きかけ、曇りを拭いた。


「だから俺がここにいる。親父が捨てたこの剣を拾って、親父に変わって、王に借りを返す」


「……借り」


「名誉の借金だ。親父は、逃げた。その借りは血で返す以外にない。王の盾になって、いつか立派に死んで、それで初めてヴァルハイト家の汚名がそそがれる」


 アデルベルトは剣を膝から持ち上げ、焚き火の光にかざした。古くとも大切に手入れされた、真っ直ぐな刀身。磨き上げられた鋼は、炎の色を鮮やかに映していた。


「だから俺は嘘をつかない。逃げない。この剣を振り続ける。それだけだ」


 アデルベルトの横顔を、ナナハルトは見ていた。焚き火の揺らぎが赤い髪に影を落とし、きりっとした目つきの奥に、怒りとも悲しみともつかない、硬い光が宿っている。従士団の流儀で父の名前を冠して『アルデンの子アデルベルト』と名乗った時本当は苦々しく思っていたのだろう。


 アデルベルトは、名誉のために戦っている。親父の汚名を背負い、王の恩義に命で応えるために、自分より遥かに重いものを抱えて最前線に立っている。若くて彼は氏族の長だった。彼の後ろにはきっと沢山の人が、彼に期待をしている。同い年の少年が背負うには重すぎるものを、その広くはない肩は既に受け止めていた。


 自分はどうだ。母と妹を食わせるため。それだけのために、ここにいた。戦う理由なんてなかった。ただ流れ着いて、居場所を与えられて、言われるままに剣を握っていただけだ。エリと出会って、少し特別な事が出来る気になって調子に乗っていた。自分の力が自分を上に上げていると過信していた。


 だが今日、この不器用な少年が自分の横に立って剣を振ってくれたから、ナナハルトは生きている。アデルベルトの剣がなければ、あの鉈は自分の頭を割っていた。ロルフの矢がなければ、死角からの一撃で倒れていた。エルヴィンの声がなければ、最初の震えから動けなかった。


「……アデル」


 声が出た。無意識に、愛称で呼んでいた。


 アデルベルトが顔を上げた。「ふん」とも「何だ」とも聞こえる、短い鼻息。


「僕は、アデルみたいに立派な理由なんてない。金を稼ぎたかっただけだ。妹に食わせたかったんだ。それだけだった」


 焚き火の薪が崩れ、火の粉が二人の間を舞い上がった。


「でも、今日お前が横にいなかったら、僕は死んでた。僕だけが逃げるわけにはいかない」


 言葉を探した。あの王の剣のノイズのこと。無駄に漏れ出しているエネルギーのこと。それは――エリのために、ナナハルトが何とかしなければならない問題だ。だが、今ここでアデルベルトに言うことではない。


「だからさ。僕……ただの出稼ぎじゃなくて、まともに盾を扱えるようになるよ。お前たちが国や名誉のために戦うなら、僕も一緒にここで戦う。誰の背中も見捨てない」


 沈黙が落ちた。ナナハルトは自分の手を見た。爪の間の赤黒い汚れ。雪で擦りきって痛む指先。あの男を刺した時の、生温かい感触の記憶。

 アデルベルトは顎を引いた。唇がわずかに動き、何か言いかけて、やめた。代わりに、剣を鞘に収める金属の鳴る音が、冬の夜の空気を短く震わせた。


「……勝手にしろ」


 照れているのか、馬鹿にしているのか分からない。だが唇の端が、かすかに上がっていた。


 ナナハルトは焚き火に手をかざした。指先が温かくなっていく。指の震えは、いつの間にか止まっていた。

 頭の中で、まだあの不協和音が鳴り続けている。だが今は、それが不快ではなかった。解決すべき問題の重さが、胸の底に静かに沈んでいく。



 焚き火の向こう側で、ブランドが干し肉を齧りながら「おい、若いの二人、飯食え」と声を上げた。ロルフが「いたそーな顔してるねえ、二人とも」と笑い、酒の入った革袋を放り投げた。アデルベルトがそれを片手で受け取り、一口含んで顔をしかめ、黙ってナナハルトに差し出した。


 安い麦酒だった。喉を焼くような粗い味が食道を落ちていき、胃の底で小さな火が灯った。



 冬の空には雲が低く垂れ込めていたが、その切れ間から、一つだけ白い星が覗いていた。ナナハルトとアルデベルトはそれを見上げた。


「なあ、『ヴィンターガルド』って『北の星』が由来なんだってさ」


 星を見るナナハルトにアデルベルトがつぶやく。


「お前の、ナナハルト・アスター。『アスター』も星だ。きっと、星がお前をここに呼んだんだな。北の星が、お前を導いた。立派な理由なんか、これからいくらでも出来る」


 ヴィンターガルドの皆はこれからも戦って、血を浴びて、震える手で剣を拭く。彼らが命を張った場所に、自分も立っている。手は、もう震えていなかった。


 それに、そろそろエリを地下都市に返さなくてはならない。本格的な冬が始まってあのエレベータのある場所が雪に埋もれる前に。地下都市でクレーナが言っていたエリの地上での活動期間の期限がそろそろ限界を迎える。戻ったらエリがいるうちに、エーテルの省力化を見てもらおう。

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