宵闇の工房と梟の視線
ウーラの食卓を離れたのは、腹がようやく温もりで満たされてからだった。
クイルは途中で姿を消していた。
記録のために都市の別の場所に向かった、とエリが短く言った。ルカの姿も見当たらない。気がつくといなくなっている。ルカはやはり山猫の気配がする。猫というのは確かにそういう生き物だから。
エリについていく先々で、通路の材質が徐々に石造りから剥き出しの金属へ変わっていく。暖色の光が消ていき、天蓋の光が抑えられ、代わりにエーテル回路の青白い光だけが照らす空間への変化。
農園とは空気の質が根本から異なる場所へとたどり着いた。
壁面は金属と鉱物が混在した素材で構成され、表面に回路の細い光脈が走り、その光だけが薄暗い空間の輪郭を浮かび上がらせていた。
空気が涼しい。農園の湿った暖気とは正反対の、乾いて澄んだ冷気が肌に触れた。金属の匂いがした。鉄とも銅とも違う、刃物を研いだ時に立つあの微かな金属臭に似た匂いが、空間全体に薄く広がっている。
工房だった。壁面に修復用の道具が整然と掛けられ、作業台の上には分解途中の機構部品が並んでいる。余計なものが何一つなかった。
天井の梁に影が止まっていた。
黒い梟だった。大きさは鷹ほどで、羽毛は深い黒に灰色の縞模様が混じっている。
丸い目が金色で、エリの瞳と同じ色だった。梟はナナハルトを見ていた。首だけが九十度ほど傾いて、片目でこちらを捉えている。
梟が梁から飛び降りた。
落下ではなく滑空だった。翼を一度だけ叩いて床に向かい、着地の瞬間に影が膨らんだ。黒い羽が広がり、輪郭が崩れ、立ち上がったのは女だった。
黒髪に灰色の縞が残る髪を無造作に結い上げた、背の低い女だった。男勝りな相貌に職人の目をしている。
着ているものは作業着に近い実用的な衣服で、袖が肘まで捲りあげられた腕は細いが筋張っていた。
エリが小さくその名を呟いた。クレーナ、と。
梟だった女はナナハルトを一瞥し、それからナナハルトの手を見た。顔ではない。身体でもない。手だけを見た。
三歩で間合いを詰めた。足音はあった。
ルカと違い、この人は物理的に床を踏んでいる。硬い靴底が短い反響を返す、職人の歩幅だった。
ナナハルトの右手が取り上げられた。許可を求める動作はなかった。クレーナの手は小さく、指は短いが、握る力には迷いがなかった。掌を上に向けさせ、指の一本一本を伸ばし、関節を曲げ、爪の形を見、指先の腹を親指で押した。
手を触られる感触は楽器の調律に似ていた。弦の張り具合を確かめるように、指の弾力と硬さと可動域を測っている。
「……手は悪くない」
声が来た。低く、短く、乾いていた。母音を省略するような発声で、必要最小限の空気だけを使って言葉を形にしている。
「だが何も知らない」
手を離した。ナナハルトの手がそのまま宙に残った。褒められたのか貶されたのか、判断がつかなかった。
悪くはない。しかし何も知らない。この二つは矛盾しているようで、していない。楽器の素材は良いが、まだ何も弾かれていない、と言われた気がした。
クレーナは振り向き、壁面の一箇所に手を当てた。エーテルの回路が走る壁の表面に指先を這わせ、何かを探るように目を細めた。
梟の金色の目が回路の光を拾い上げて暗がりの中で浮かぶ。指先が止まった位置で壁面の光脈がわずかに揺らぎ、やがて均一な脈動に戻った。修復だった。
壁面の微細な歪みを、触れるだけで直したのだ。
ナナハルトはその動作を見ていた。音で何をしているのか理解した。
クレーナの指が壁に触れる前と後で、壁から聞こえる音が違っていた。触れる前はどこかで金属の薄い板が共振するような微かな濁りが混じっていて、触れた後にそれが消えた。音が一つ清浄になった。
手を壁に近づけた。触れてみたかった。
指先が壁面に触れた瞬間、回路を流れるエーテルの振動が指の腹から掌へ、掌から手首へと伝わってきた。
「鳴ってる。この壁、音がする」
声に出していた。カリンバの鍵に触れた時と似た感覚だった。
金属を通じて振動が身体に入り込み、その振動の中にリズムがあり、リズムの中に不規則な揺らぎがある。壁そのものが弦のように震えていて、流れるエーテルが弓のように振動を引き出している。
背後で微かな気配があった。
「へぇ。聴こえるのか」
それは独り言だった。
クレーナの梟の大きな目がわずかに見開かれたのを、振り向いた時にナナハルトは見た。
目の奥で何かが動き、しかし表情は変わらなかった。
「……見るだけだ。今日は」
それだけははっきりと言って、クレーナは梟に戻った。黒い羽毛が広がり、小さな身体が梁の上に舞い戻る。
用が済んだから梟に戻った。それだけのことだった。
感覚としてはコートを脱ぐのと同じ程度の日常動作で、ナナハルトは驚くべき事象であるはずのそれに、不思議と納得していた。この人にとっては梟でいることと人間でいることの間に優劣がない。必要な形になる。それだけだ。
エリが工房の入口で待っていた。踏み込まなかったのは、この場所がクレーナの領域だからだろう。管理者たちの間には互いの領域を侵さない秩序が在る。それは言葉で取り決めたものではなく、都市の回路のように自然に流れている規律のように見えた。
ナナハルトがエリの横を通り過ぎた瞬間、回路の光が一度だけ強く脈打った。
それは、さきほど壁に触れたときと同じ反応だった。
この都市は、自分に反応している。
本日2回目の更新です。 明日からも毎日19:30に投稿を続けていきます。 もし少しでも『続きが気になる』と思っていただけたら、ブックマーク等で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!




