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宵闇の工房と梟の視線

 ウーラの食卓を離れたのは、腹がようやく温もりで満たされてからだった。


 クイルは途中で姿を消していた。記録のために都市の別の場所に向かった、とエリが短く言った。ルカの姿も見当たらない。気がつくといなくなっている。猫というのは確かにそういう生き物だ。


 エリについていく先々で、通路の材質が徐々に石造りから剥き出しの金属へ変わっていった。天蓋の暖色光が抑えられ、代わりにエーテル回路の青白い光だけが通路を照らしている。


「急に空気が冷たくなった。それに、鉄の匂いがする」


「ここから先は別の管理区。都市の中枢を維持する場所なの」


 農園の湿った暖気とは正反対の、乾いて澄んだ冷気が肌を撫でた。鉄とも銅とも違う、刃物を研いだ時に立つあの微かな金属臭が空間全体に薄く広がっている。


 羽ばたきの音がした。通路の先の暗がりから黒い影が滑り出てくる。それは、鷹ほどの大きさの梟だった。羽毛は深い黒に灰色の縞模様が混じり、丸い目が金色に光っている。


 梟はナナハルトの頭上すれすれを音もなく通過し、通路の奥へ向かって滑空していく。


「……鳥?」


「クレーナよ」


 エリはそれだけ言って、梟の後を追うように歩き出した。四人目の管理者は、鳥だった。


「もう、もう何が出てきても驚かないな」


 梟に導かれて辿り着いた空間の入口で、エリが足を止めた。


「わたしは外で待つわ。ここはクレーナの領域だから」


「僕一人で入るのか?」


 エリはこくりと頷いた。角のある少女の金色の瞳が、工房の薄暗がりではなく、ナナハルトの顔を見ていた。


「大丈夫。クレーナは見るだけだから」


 その言葉の意味を理解するより前に、ナナハルトは一人で工房の中へ足を踏み入れていた。


 壁面は金属と鉱物が混在した素材で構成され、表面に回路の細い光脈が走っている。その光だけが薄暗い空間の輪郭を浮かび上がらせていた。修復用の道具が壁に整然と掛けられ、作業台の上には分解途中の機構部品が並んでいる。余計なものが何一つない、研ぎ澄まされた空間だった。


 梟が作業台の縁に降り立った。首だけを九十度ほど傾けて、金色の片目でナナハルトを捉えている。


 次の瞬間、梟の影が膨らんだ。


 黒い羽が広がり、輪郭が崩れ、影の中から腕が伸び、肩が形をなす。立ち上がったのは女だった。灰色の縞が混じる黒髪を、無造作に結い上げている。着ているものは作業着に近い実用的な衣服で、袖が肘まで捲り上げられた腕は細いが筋張っていた。


「——っ!?」


 ナナハルトの喉から声にならない音が漏れた。思わず一歩後ずさり、腰のカリンバに手が伸びる。鳥が今、人間になった。目の前で。骨格も質量も全く異なるものが、影を介して入れ替わった。


「小僧」


 低く短い、母音を省略するような発声だった。変身を終えたばかりの女は、ナナハルトの動揺を一切見ていなかった。視線は作業台の上の部品に向けられたまま、必要最小限の空気だけを使って言葉を発する。


「中に入れ。そして黙れ。ここは響く」


 硬い靴底が短い反響を返しながら、クレーナがナナハルトに近づいた。ルカと違い、この女は物理的に床を踏んでいる。足音がある。その事実が、今しがた鳥だったという現実をさらに異様なものにしていた。


 クレーナはナナハルトの顔を一瞥し、それから手を見た。顔や身体よりも手が大事だとでも言うように。


 許可を求める素振りもなく、ナナハルトの右手が取り上げられた。


「な……なんだよ」


 クレーナは答えなかった。小さな手で掌を上に向けさせ、指の一本一本を伸ばし、関節を曲げ、爪の形を見、指先の腹を親指で強く押した。その手つきは楽器の調律に似ていた。弦の張り具合を確かめるように、指の弾力と硬さと可動域を測っている。


「……手は悪くない」


 短い沈黙のあと、クレーナが言った。


「だが何も知らない」


 クレーナはナナハルトの手を離すと、不快そうに壁を睨んだ。


「濁った。お前がノイズを持ち込んだせいで」


 舌打ちのような呟きと共に、壁面の一箇所に手を当てる。エーテル回路が走る表面に指先を這わせ、何かを探るように目を細めた。


 金色の目が回路の光を拾い上げて暗がりの中で浮かんだ。指先が止まった位置で壁面の光脈がわずかに揺らぎ、やがて均一な脈動に戻る。


 ナナハルトは呆然とその動作を見ていた。音で、彼女が何をしたのかが分かった。

 クレーナの指が壁に触れる前と後で、空間を満たす音が違っていたのだ。確かにナナハルトが足を踏み入れてから、どこかで金属の薄い板が共振するような微かな濁りが混じっていた。それが、彼女が壁に触れた途端に消え、音が一つ清浄になった。調律だ。壁の歪みを、触れるだけで直したのだ。


 手を壁に近づけた。触れてみたかったからだ。

 指先が壁面に触れた瞬間、回路を流れるエーテルの振動が指の腹から掌へ、掌から手首へと伝わってきた。


「鳴ってる。この壁、音がする」


 声に出していた。カリンバの鍵に触れた時と似た感覚だった。金属を通じて振動が身体に入り込み、その振動の中にリズムがあり、リズムの中に不規則な揺らぎがある。壁そのものが弦のように震えていて、流れるエーテルが弓のように振動を引き出している。


 背後で、微かな気配が変わった。


「へぇ。聴こえるのか」


 それは独り言だった。振り向いた時、クレーナの目がわずかに見開かれているのをナナハルトは見た。目の奥で何かが動いたが、表情はすぐに元に戻った。


「見るだけだ。今日は」


 それだけ言い残して、クレーナは梟に戻った。黒い羽毛が広がり、小さな身体が梁の上に舞い戻る。


「また、鳥に」


 ナナハルトは呆然と梁の上の梟を見上げた。梟は既にこちらに興味を失ったように、首を羽に埋めている。用が済んだから鳥に戻った。それだけのことらしい。


 工房を出ると、エリが通路の壁に背を預けて待っていた。


 ナナハルトがエリの横を通り過ぎた瞬間、回路の光が一度だけ強く脈打った。さきほど壁に触れた時と同じ反応だった。


 この都市は、自分に反応している。

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