白いスープと涙の理由
エリに導かれて歩き出した通路は、落下地点のあの広い空間とは違う表情をしていた。
通路の天井は低く、両手を広げれば壁に届くほどの幅しかない。左右を、青白い光脈が走っている。
「この青くて光っているのは何だろう」
「エーテル回路。都市の中をエーテル回路が巡っているの」
光は一定のリズムで明滅し、壁面に刻まれた細い溝を辿って頭上へ流れ、背後へと消えていく。歩くたびに靴底の反響が跳ね返ってくるのは先ほどの空間と同じだが、通路の狭さが音に輪郭を与えて、自分の足音の形がはっきりと分かった。
背後に気配があったが、振り向かなかった。振り向けば猫耳の少年と目が合う。ルカはまだ此方を見ている。殺気はさきほどの膠着からいくらか温度を下げていたものの、消えてはいない。監視する獣の気配はずっと背中に張りついていて、意識から外すことができなかった。
通路を抜けた瞬間、張り詰めていた冷気がふっと緩んだ。
「……植物の匂いだ」
思わず声が漏れた。土と緑の湿った匂いが肺を満たし、視界が一気に開ける。
「農園ね」
エリが短く言った。
透明な水路の上に棚が組まれ、根を水に浸した植物たちが何層にも重なって育っている。葉は深い緑に沈み、茎は光を透かし、果実の表面にはエーテル回路に似た青い筋が浮いている。天蓋の暖色光を受けて、農園全体がゆっくりと呼吸しているように見えた。
「水……? こんなに贅沢に、水が流れているのか?」
ナナハルトの声が上ずった。地上の村では川や井戸から水を桶で運び、一杯の水を家族で分け合う。冬場の水汲みは凍てつく早朝の重労働で、妹のリーゼルが唇を紫にして桶を引いていた光景が脳裏をよぎった。それが、ここでは透明な水路となって、ただ静かに流れている。
農園に隣接した空間から白い蒸気が立ち上っていた。蒸気の中に匂いが混じっている。根菜を煮込んだような甘さと、穀物を焼く香ばしさ。地上の母の台所で嗅いだ匂いとは成分が何もかも違うのに、この匂いが意味するものだけは同じだった。
誰かが、食事を作っている。
蒸気の向こうに白い影が揺れていた。柔らかな白銀の髪を一つに束ねた女性が、鍋の前に立っている。穏やかな目元は年齢が読めない。母と同世代にも、もっと若くも見えた。
その女性がこちらを見た。大きな瞳の中に驚きとも可笑しさともつかない光が一瞬浮かび、すぐに柔らかな微笑みに溶ける。
「ナナハルト君、お腹が空いている顔をしているわね」
名前を呼ばれた。会ったことのない相手に。
「エリュシオンがあなたの名前を確定したため、全員に即時共有されました。ウーラもあなたの名を既に知っています」
クイルは後方でエリの隣に立ち、こちらに目を向けないまま情報だけを提供した。エリの認識が、そのまま都市の知識になるということか。
「さあ、座りなさいな」
ウーラと呼ばれた女性がそう言って、鍋をかき混ぜるために身体を動かした。
その瞬間、シュルリと硬質なものが床を滑る音がした。調理台の陰から、真珠のように輝く分厚い白蛇の胴体がゆるやかにうねり出る。腰から下が蛇だった。尾の先が背後の棚に軽く巻きつき、身体を支えている。
角のある少女エリ。足音のない猫の少年。息をしない鴉の男。そしてこの、蛇の体を持つ女性。人ではないものばかりだ。
だがウーラの声は母が言うように自然だった。何も聞かなかった。どこから来たのかも、なぜ落ちてきたのかも、傷の理由も疲労の原因も。ただ温かい声で名前を呼び、席を示した。
蛇の胴体が滑るように動き、調理台の上の器を尾の先で器用に引き寄せる。湯気の立つ椀がナナハルトの前に置かれた。
椀の中には、透明に近い琥珀色のスープが湛えられていた。地上では見たことのない根菜が沈んでいる。白い断面に薄い紫の環が走り、表面には農園で見た植物の葉が散らされていた。立ち上る湯気には甘さがあった。
隣にはパンが添えられている。
さらに掌に収まるほどの果実が置かれた。半透明の果肉の内部に光が封じ込められているのか、農園の天蓋光を受けると果実そのものが光源になったように見えた。
ナナハルトはスプーンを手に取ったが、口には運ばなかった。
「これ……本当に僕が食っていいのか?」
部屋の隅で丸くなっていたルカが、片目だけを開けた。
「ウーラのご飯を食べないなんて、後悔するぞ。それにお前さっきから腹がなってる。人間って面倒なやつだな」
猫耳がぴくりとこちらを向いたまま、ルカは再び目を閉じた。殺す気でいた相手に飯の心配をされるとは思わなかった。だが腹が鳴っていたのは事実だった。猫の耳には筒抜けだったらしい。
口をつけた瞬間、舌の上で何かが溶けた。根菜の繊維がほどけ、味が段階的に広がる。出汁の深さ、根菜の甘み、葉の微かな苦み。身体の内側が洗われるような感覚があって、極寒の山で消耗した器官の一つ一つにスープが行き渡っていくのが分かった。
薄く硬い焼き色を持つパンをちぎって割ると中から白い湯気と共にきめの細かい柔らかな生地が現れた。パンをスープに浸す。柔らかい生地がスープを吸い上げて、噛むと二つの味が同時に舌に広がった。旨かった。腹の底から温まる旨さだった。
警戒心が完全に溶けた。村を出発して七日目。まともな温かい食事など、一度も口にしていなかった。
「……うまいな」
ふいに、スプーンを握ったままナナハルトの指が止まった。
腹の底から広がる圧倒的な温もりが、張り続けていた身体の糸を断ち切ったのだ。父が亡くなってからのこの一ヶ月間、そして村を出発してからの過酷な七日間……。
父の革コートを着て、父の遺した地図に従い、絶対に生き抜くのだと気を張り続けてきたすべてが、一杯のスープの温かさの前で無防備に崩れ落ちた。
頬を何かが伝った。右手でスプーンを持ったまま、左手で頬に触れた。指先が濡れていた。止め方が分からない。頭が理解するより先に、温もりにほどかれた身体が勝手に涙を溢れさせていた。
エリがナナハルトの顔を覗き込んでいた。金色の瞳が、頬を伝う水滴の軌跡を追っている。
「あなたの目。水分が出ている。身体機能が異常値を示している。詳細な走査が必要」
「……ちがう」
ナナハルトは袖で乱暴に頬を拭った。
「美味すぎるだけだ」
エリはわずかに首を傾げた。理解したのか、しなかったのか、その境界にある表情のまま、ナナハルトの顔をじっと見つめている。
ウーラは何も言わなかった。涙を拭けとも、どうしたとも言わなかった。蛇の身体が滑らかに動き、鍋からもう一杯分のスープを椀に注ぎ、静かにナナハルトの前に置いた。それだけだった。この人は聞かない。なぜ泣いているのかを聞かない。聞かずに二杯目を出すのだ。
その沈黙が、言葉よりも深く、ナナハルトの胸の奥に触れた。
部屋の隅で、ルカが丸くなって横になっていた。眠っているように見えたが、片方の耳だけがナナハルトの方を向いている。
エリがナナハルトの食べる姿を見ていた。
天蓋から降り注ぐ農園の強い光を受けて、彼女の瞳の中で、ある変化が起きた。
暗い落下地点では丸く大きく開いていた黒い瞳孔が、光に反応してスッと収縮したのだ。それは人間のそれのように円形に絞られるのではなく、真横に長い、四角い形へと平たく変化した。
ナナハルトは思わずスプーンを止めた。その瞳を知っていた。地上の村で、家畜として飼われていた山羊や羊と同じ形だ。
神秘的で、けれどどこか草食動物のような穏やかさと無機質さが同居する異質な目。彼女が人ではないことを、その瞳孔の形が何よりも雄弁に物語っていた。




