観測者と境界の獣
(……これなら、いけるかもしれない)
そう思った瞬間に指が二音目を弾いていた。今度は意識的だった。相手の殺意を音で逸らすための、探索者としての防御行動だ。
弾きながら考えていた。考えながら弾いていた。
ナナハルトにとって音楽は思考と同じ速度で走るものだ。三音目は旋律になりそこねた断片的な音の連なりで、指先の震えがそのまま乗っている。
旋律になれなかった出来損ないの音が、剥き出しのまま冷たい壁に吸い込まれていく。けれど、その無様な響きこそが、この硬すぎる沈黙をようやく削り取ってくれた気がした。
猫耳の少年の両耳が、音を追っていた。本人の意思とは関係なく。身体が裏切っている。
少し離れた位置から、彼女がこちらを見ていた。
都市の回路の光がカリンバの音に反応して明るくなり、その光が彼女の金色の瞳に差し込んだ時、瞳の中で何かが動いたように見えた。瞳孔の輪郭が一瞬だけ形を変えたような気がしたが、猫耳の少年の耳の動きに意識を取られていたナナハルトはそれが何であったかを確かめる間もなく視線を戻していた。
「変化したわ。都市の波長が」
彼女がナナハルトに一歩歩み寄った。
「ルカが止まったのは、四百年ぶり」
声は抑揚を欠いていたが、そこに含まれている情報の重さにナナハルトの指が止まった。
「四百年って……お前達は、人間じゃないのか」
「あなたは人間ね。わたしたちはそれとは異なるもの」
彼女の声には感情の揺れがなかった。人間と、そうでないものを仕分けただけの言葉だった。
四百年。この少年は四百年間、何にも止まらなかったのか。この女の子はその四百年の、それ以上の時間を知っているのだ。
「観測を続けましょう。この人間には、もう少し時間をかける価値がありそうです」
クイルがそう判断を下して猫耳の少年に視線を送ると、少年は唸りの音量を上げることで不服を表明したが体勢は崩さなかった。エリュシオンの名のもとに下された判断には、彼も逆らえないのだ。
「私の名前はクイル。彼はルカです。お見知り置きを」
鴉の男、クイルは記録を閉じるような手つきで、鴉が翼を畳むように穏やかに礼をした。
「勝手に決めるなよ、クイル。エリュシオンが止めろって言わなきゃ、あの指ごと潰してたぞ」
猫耳の少年、ルカが低く吐き捨てた。尻尾の先だけが苛立たしげに揺れている。
「ええ。ですが止めなかった。それが観測結果です」
クイルは鴉の装飾に覆われた左目をルカに向けたまま、淡々と応じた。声はルカに向く時にはわずかに事務的な硬さを帯びる。
「あなたの足音は、都市に似ているわ」
彼女がそう言った。視線はナナハルトの足元に落ちていて、靴底と床の間に生まれる振動の何かを聴いているようだ。
「エリは、気に入ったわ」
エリだった。角のある正体不明の女の子ではなく、エリ。
ナナハルトの中で、その名前がようやく落ち着く場所を見つけた。
ナナハルトは答えの代わりにもう一度だけカリンバの鍵に触れた。今度は音を出さないようにそっと。
金属の冷たさだけが親指の腹に残り、その感触が全身の強張りをわずかに溶かした。
「はっ? エリ……だって。そう名乗ったのかよ? エリュシオンが」
再び、ルカから一瞬の殺気。だがそれは一瞬で、ただ驚いたという響きだった。
殺されなかった。
少なくとも、今は。




