敵、排除する
彼女の名前がカリンバの音階でどう奏でるか思い描く最中、ナナハルトの首筋が粟立った。
肌の表面を覆っていた柔らかな暖気の中に、針の先のような冷たさが一筋、背後から、正確に首の右側だけに差し込んできた。
音はない。それがいちばん恐ろしかった。
この床は音を返す。靴底が触れるたび、短い反響が空間に散る。壁も天蓋も音を吸わない。拾い上げて遠くまで運ぶ構造だ。
なのに背後から近づいた何かは一切の足音を立てなかった。床の上を歩いていないのだ。あるいは、歩くという行為そのものが違う。
ナナハルトは振り向いた。
少年がいた。自分より頭半分ほど低い背丈で、短い黒髪に白い肌、顔の造りは整っていて、年齢はナナハルトと同じか少し下に見えた。だが目が合った瞬間にそうした観察は全部意味を失った。紺碧の瞳に温度がなかったのだ。
瞳孔は細く絞られ、こちらを映している。
少年の頭の両側から猫の耳が突き出ていた。毛並みは黒く内側だけが薄い灰色で、片方がこちらに向かってかすかに傾いている。家畜の猫より大きく先端がやや尖った耳の形は山猫のそれだった。
少年の喉の奥から低い音が漏れ出た。
言葉ですらない、声帯が空気を押し出す最も原始的な威嚇。山猫の威嚇音だ。その音すらも床の反響を伴わなかった。この少年から発せられるあらゆる音は、空間に触れる前に消えるのだと理解した。
「敵。排除するね」
少年から発せられたのは単純な台詞だった。言葉というより唸りの延長だ。
ナナハルトの身体が硬直する。呼吸がごく浅いところで止まり、視界の端がわずかに白くにじんだ。
逃げろ、と本能が言ったが、足が床に貼りついたように動かなかった。動かないまま、ナナハルトの目は猫耳の少年の足元を見ていた。黒い紐で縛られた美しいブーツだ。
だが本来は重量感のあるはずのブーツは白い床に触れているはずなのに接地面に影が生じていなかった。
「お待ちを」
声が横から来た。殺気が張り詰めていた数秒の間に、もう一つの存在がいつの間にかすぐ側に立っていた。
ナナハルトが見上げなければならないほど背が高い長身の男だ。
左目から頬骨にかけて、鴉の嘴を思わせる鋭角的な黒い金属が肌に沿うように張りついていた。装飾のようでもあり、目を覆う器具のようでもある。その金属の内側で、人間のものではない光がかすかに脈打っている。
人間として見慣れた配置の中にすべての要素が正しすぎる精度で収まった顔は、精密に組み上げられた標本を見るような感覚が先に来た。
さらに違和感もあった。声を出す時に息を吸っていない。口を開く動作と発声が同時だ。
「ルカ。エリュシオンが関心を示しています。まずは観測を」
猫耳の少年が反応した。唸りの種類が変わり、先ほどの殺意に不服の色が重なる。
向けられていた殺気がそらされる。エリュシオンという名前が空気の中で効力を持ったのだと分かった。
鴉の装飾に覆われた左目が、ナナハルトの全身を一度だけ走査した。上から下へ、視線が紙面を読むように正確に移動する。
「記録を開始します。ヒト個体、推定十五歳。髪色は暗い亜麻色。瞳は灰色だが、微かに緑が混じっている。光の加減で見え方が変わるため、確定は保留」
何を言われているのか一瞬分からなかった。だが、それが自分の外見を記録されているのだと理解した時、ナナハルトは妙な居心地の悪さを覚えた。
「勝手に人を値踏みするなよ……」
「記録は観測の基本です」
男は淡々と続けた。
「手指の腹に弦楽器由来と推定される胼胝を確認。右手親指の可動域が標準値を超過しており、繰り返し何かを弾いてきた手です」
猫耳の少年の唸りはまだ低く続いていた。殺意は消えていないが、今すぐ殺すという質のものではなくなっている。
三者の間に沈黙が降りた。
回路の光が壁を伝い天蓋へ昇り降りてくる微細な振動と、機械の心拍のような一定の間隔を持った脈動が床を通じて足裏に届いていて、その中でナナハルトの心臓だけが不規則に打っていた。
喉がひりついた。指の先から熱が逃げ、肩が嫌な音を立てそうなほど強張る。だが不思議なことに、恐怖の中で思考は止まっていなかった。
音が全部違う、と思った。猫耳の少年は音を出さず、鴉の男は声だけが響き、角のある女の子は都市と同じ音がする。
自分だけが心臓と呼吸と靴と衣擦れの音を四方に撒き散らしていて、この空間で最もうるさいのは自分だった。
腰に巻いたカリンバの金属鍵に右手の親指が触れた。無意識だ。極寒の稜線で恐怖に縮こまった時も指は勝手にこの場所に戻ってきた。
カリンバは落ち着かいないときのお守りのようなものだ。鍵の先端が親指の腹に触れて微かに揺れた。
一音が漏れた。触れた拍子に鍵が揺れて、金属の薄い振動が生まれただけの音だ。
たった一つの音が、逃げ場のない石の空間を震わせて、重い静寂を波立たせた。
猫耳の少年の右耳がぴくりと動く。ナナハルトは、殺気に固まっていた紺碧の瞳に一瞬、別の何かが混じるのを見た。動いたのは耳だけではなかった。肩の力がごくかすかに抜け、傾けていた重心がほんの少しだけ中央に戻り、身体全体が音のした方向に向き直ろうとする。
次の瞬間には少年の顔に苛立ちが走った。自分の身体が勝手に反応したことへの怒りだった。紺碧の瞳が鋭く戻り唸りが一段低くなったが、耳は戻らなかった。前を向いた目とは無関係に、右の耳だけがカリンバの方向に残されている。
「……山猫みたいだな」
口に出してから、しまったと思った。森で出くわした若い山猫がそうだった。獲物を狙いながら別方向の物音に耳を取られて、殺したいのに気になるという矛盾を全身で表現していた。
あの時、ナナハルトは恐怖に震えながらもカリンバを不規則に鳴らした。獣の狩猟本能を、未知の音への好奇心で上書きして窮地を脱したのだ。目の前の少年とあの時の猫が完全に重なった。
「は? 僕を何だって?」
唸りの音量が跳ね上がった。殺意が膨れ上がる。だが耳は動かない。顔は激怒しているのに、耳だけが次の音を待つように微かに震えている。




