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初陣(※戦闘の残酷表現あり)

「国境から急報! グランツ領下の傭兵団、街道を封鎖! リンデン村の街道筋で略奪が始まっている!」


 伝令の告げる馬蹄の音で、訓練の朝が終わった。



 西の門の方角から、二頭立ての早馬が雪煙を巻き上げて駆け込んだ。馬上の伝令は毛皮の外套を泥で汚し、額に乾いた血をこびりつかせていた。馬の口から白い泡が垂れ、前脚が石畳の上で何度もよろめいている。


 訓練場が一瞬凍りついた。そして次の瞬間、全員が動き始める。エルヴィンが木剣を捨て、壁に立てかけてあった実戦用の大盾と片手剣を掴み上げる動作に、迷いはなかった。ブランドが兵舎の暗がりから現れ、背中に担いだ両手剣の柄を叩きながら短く吠えた。


「おう、やっとだな。行くぞ」


 ロルフは弓弦から脂布を外し、矢筒の蓋を開け、中を確認する。そばかすの浮いた頬から、笑みが消えていた。


 ナナハルトは訓練場の石畳に立ったまま、周囲の兵士たちが武器を掴んで走り出すのを見ていた。訓練用の木剣の感触がまだ掌に残っていた。

 だが、今から握るのは木ではない。鉄だ。血を吸った鉄の匂いは、探索者として知っている。獣を解体する時に使う刃の、あの甘ったるい錆の匂い。


「ナナハルト」


 エルヴィンの声が背後から降ってきた。振り向くと、老騎士は既に完全武装を終えていた。右手には片手剣、左手の大盾の革紐が前腕にきつく巻かれている。その目が、ナナハルトの足元を見ていた。


「盾を取れ。お前も出る」


「……僕が、ですか」


「お前が訓練してきたのは何のためだ」


 ナナハルトは石壁に立てかけてあった支給品の盾を掴み、そのまま兵舎へ走った。革鎧の上から鉄の腕当てを締め、腰に短剣を差す。いつか来るはずだった初戦闘だ。もう、訓練ではない。

 指先が震えて、一つ目の留め金を三度やり直した。



 リンデン村まで、馬で一刻半。


 ナナハルトの騎乗はまだ訓練中で、この急な移動にはついていけると思えなかった。それ告げると、ブランドの馬の後ろに荷物のように括りつけられた。背中に盾を負い、腰の短剣が太ももに当たるたびに鈍い痛みが走る。ブランドの広い背中は毛皮の外套越しでも熱を持っていて、冬の風を切る速度の中では唯一温かいものだった。


「チビ、落ちるなよ。落ちたら拾わねえぞ」


 ブランドの声は風に半分千切られたが、背中の振動が低く響いて、腹の底に届いた。


 街道の両脇に積もった雪が、馬蹄に蹴り上げられて顔に当たる。目を細めると、前方を駆けるアデルベルトの赤い髪が、灰色の空を背景に旗のように揺れていた。彼は一人で馬を御している。背筋が真っ直ぐで、握った手綱に遊びがない。


 煙の匂いが鼻を突いた。


 リンデン村の手前、街道沿いの木々が途切れたところで、黒い煙が二筋、冬の空に立ち昇っているのが見えた。納屋か、家畜小屋か。乾いた木材が燃える匂いに混じって、獣脂の焦げる甘い臭いが風に乗ってきた。


 エルヴィンが右手を上げ、部隊が止まった。馬が荒い鼻息を吐き、蹄が凍った泥を踏み砕く音だけが残った。


「降りろ」


 ブランドが短く言い、ナナハルトは馬から滑り落ちた。着地の衝撃が膝に来て、雪まじりの泥に片手をついた。泥の冷たさが指の間に染み込む。


 村の入口に横倒しになった荷車が見えた。その向こう側に人影が動いている。革の胸当てに鉄の肩当て、統一された軍装ではなく、盗品を寄せ集めたような雑多な防具。手にしているのは斧や鉈、中には短い槍を持った者もいた。七人か、八人か。荷車の陰で動き回りながら、家屋から何かを運び出している。


 傭兵くずれだ。かつてどこかの軍に所属していた者が流れ、飢えと暴力で生計を立てる連中。目つきは鋭く、身体つきは屈強だった。訓練された兵士の切れ味はないが、殺すことに慣れた人間の独特の重さがある。


「ブランド、正面。エルヴィン、ナナハルトとアデルベルト、右から回り込め。ロルフ、後ろから射線を取れ」


 エルヴィンの指示は短く、静かだった。手の合図だけで陣形が決まっていく。ブランドが両手剣を鞘から引き抜いた。刃こぼれした鉄の刀身が、曇天の光を鈍く吸い込んだ。


「行くぞ。道、開ける」


 ブランドが低く踏み込み、荷車を蹴り飛ばしながら正面から突っ込んだ。荷車の板が砕ける音と、最初の敵の悲鳴が同時に響いた。


 ナナハルトは走った。


 盾を左腕に構え、右手に短剣を握り、エルヴィンとアデルベルトの背中を追って村の右手の小道に入った。足元は凍った畑の畝で、革靴の底が何度も滑る。呼吸が荒くなり、吐く息が白く、盾の縁に当たって散った。


 小道の角を曲がったところで、一人の男と鉢合わせた。


 鉈を持った大柄な男だった。毛皮の帽子を被り、頬に古い刀傷がある。酒の匂いがした。男の目がナナハルトを捉え、鉈が振り上げられるまでに、おそらく一拍と半。


 足が動かなかった。


 鉈の刃が曇天の光を薄く反射し、ナナハルトの頭に向かって振り下ろされた。エルヴィンの声が聞こえた。空気が変わる前に。


 盾が上がったのは、身体の反射だった。訓練場で何百回と叩き込まれた動作が、意識より先に腕を持ち上げていた。鉈の重い一撃が盾の面を叩き、衝撃が肘から肩へ走り、歯が鳴った。膝が折れそうになるのを、右足を後ろに突いて耐えた。


 二撃目が来る前に、横からアデルベルトの剣が走った。赤い髪が視界の端を掠め、鋼の刃が男の右腕に食い込んだ。肉を裂く音は、獣の解体とも違う、湿って重い音だった。


 男が鉈を落とし、よろめいた。


 ナナハルトの目の前に、がら空きの胴体があった。盾を構えたまま、右手の短剣が勝手に突き出されていた。刃先が革の胸当ての隙間に入り、そのまま奥へ沈んでいく感触が、掌を伝って腕の骨まで這い上がってきた。


 短剣を握る手に、生温かい液体が流れてきた。赤黒い色が指の間を伝い、革の手袋に染み込み、袖口まで達した。男の口から空気が漏れる音がして、身体が重くなった。短剣を抜こうとしたが、肉が刃を咥えていて、引き抜くのに両手の力が必要だった。


 男が倒れた。雪の上に仰向けに崩れ落ち、血が白い地面を黒く染めていく。開いたままの目が、曇った空を映している。


 ナナハルトの手が震え始めた。短剣の柄が血で滑り、握り直そうとして、また滑る。胃の底から酸っぱいものがせり上がってきて、口を押さえた。鼻の奥に鉄の匂いがこびりつき、吐く息のたびにそれを吸い込んでしまう。狩りで生き物に剣を立てるのは慣れていたはずだから、大丈夫だと思っていた。それでも、相手が人であればそれは全く違う。


「止まるな!」


 エルヴィンの声が頭の上から降ってきた。老騎士は大盾を構えたまま、別の傭兵の斧を受け流し、盾の縁で相手の顎を打ち上げていた。


「見るな。足を動かせ。綺麗なままでは救えない。事実として、お前も殺している。知った上で使え」


 声は厳しかったが、怒りではなかった。それは、かつて同じように震えた男の声だった。


 ロルフの矢が飛んできたのは、その直後だった。ナナハルトの左側面、死角から迫っていた傭兵の肩口に矢が刺さり、男が悲鳴を上げてよろめいた。


「あっぶなーい。横、見なよ」


 背後の高台から、のんびりとした声が降ってくる。だが次の矢を番えるロルフの目は笑っていなかった。細い目の奥に、獲物を追う猛禽のような冷たい光が灯っている。


 ナナハルトは盾を構え直した。手は震えたままだ。だが足は動いた。

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