聖なる奇跡と野良の猫
聖教皇庁が運営する孤児院は、王都の東区画、城壁の内側ぎりぎりの場所にあった。
石造りの建物は古く、壁面の漆喰が所々剥がれている。だが玄関先だけは丁寧に掃き清められ、入口の脇にはスミレの鉢植えが一つ、冬の寒さの中で小さな紫の花を咲かせていた。
ヘイルルーンは孤児院の裏手に回り、井戸の横に設置された浄水装置の前で膝をついた。ナナハルトが隣にしゃがみ、工具袋を開く。
「ここよ。三回とも、この接合部で止まった」
ナナハルトは配管に耳を当てた。指の腹で接合部を軽く弾く。硬く、短い金属音。詰まっている時の、行き場を失った振動。
「やっぱりここだ。径を落とします」
ナナハルトが工具を手に取り、接合部を外し始めた。手つきは昨日の解体と同じだった。迷いがなく、指先が結果を知っているかのように動く。ヘイルルーンはその手元を見つめながら、腕を組んだ。
「あなた、あの地下都市でこういう作業をしていたの」
「はい。第二プラントの保守巡回を手伝いました。配管の組み方は叩き込まれてますよ」
ナナハルトが絞り弁を組み込み、配管を繋ぎ直した。水を通すと、透明な液体が滞りなく流れ始めた。濾過槽を抜けた水は澄み切っており、不純物の沈殿も設計通りに機能していた。
「……完璧ね」
「たまたまです。同じ失敗を三回くらいやらされたので」
ヘイルルーンは立ち上がり、建物の正面に回った。ナナハルトがその後を付いていく。
ふと、ヘイルルーンが『地下都市』と、言った気がして首を捻った。ナナハルトは、あえてエリのいた場所が地下都市だとは告げないように気をつけているはずだ。だから気のせいだろうか。
工具を袋に戻しながら、ナナハルトは透明に流れ続ける水の音を聴いていた。正しい流量が管を通る時の、低く安定した共鳴。地下のプラントで聴き慣れた音と変わらない。
工具袋の留め金を閉じた手が止まった。先ほどの会話を、耳が巻き戻している。ヘイルルーンは『あの地下都市で』と言った。ナナハルトはこの女性に、あの場所が地下にあるとは説明していない。参謀室で口にしたのは『第二プラント』という名称と、配管構造の話だけだ。それなのに彼女は、地下にある都市のことを、最初から知っているかのように口にした。
「修理のお礼に、一つだけ忠告するわ」
建物の正面へ回ろうとしたヘイルルーンが、角の手前で足を止めた。井戸と石壁に挟まれた裏手の薄暗がりで、振り返った彼女の表情は逆光に沈んでいた。
「あなたの言動は、かなり危うい。隠し事があるなら、隠し通しなさい。ここでは知識の出どころを疑われることが、そのまま命に関わる」
参謀室で聞いた毒舌とも、配管の前で見せた技術者の集中力とも違う、乾いた声だった。井戸から汲み上げた水が石の縁を伝い落ちる音だけが、二人の間に残った。
「……どういう意味ですか」
「言い過ぎると異端扱いされるわ。あそこでも、ここでも」
あそこ、という言葉が冬の空気の中に留まった。
「私はね、あの都市にあふれる空気を知っているの。地下の人間が『母様』と呼んで拝む、あの光の川。地下都市エリュシオン。私はあの場所で生まれて、育って、追い出された」
壁に反射した水音が、やけに大きく聴こえた。ナナハルトは工具袋の紐を握ったまま、指が白くなるのにも気づかなかった。
「異端視されたのよ。外の世界を見たいと言っただけで。処刑されかけて、逃げて、地上に出た。それからずっと一人で生きてきた」
ヘイルルーンの声は事実を陳列するように平坦だった。だがその間、衣服の裾を掴む指先の関節が白く浮いていることを、ナナハルトの目は捉えていた。
あの天蓋の下で生まれ、あの光の中で育ち、あの闇から逃げてきた人間が、今この冬枯れの王国で設計図を持って走り回っている。目の前の女性とエリュシオンが結びつくこと自体に、頭が追いつかなかった。
「あなたがあんまり危ういものだから、つい言ってしまったけれど」
ヘイルルーンは裾を離し、足元に置いていた籠を持ち上げた。布の蓋を開くと、藁に包まれた小さな瓶が六つ並んでいた。冬の薄い日差しが瓶の中身を透かし、濃い琥珀色が揺れた。
「これを見なさい」
一本を取り上げ、光にかざした。瓶の壁を飴色の液体がゆっくりと伝い落ちていく。
「果実を煮詰めて、塩を加えたもの。エリュシオンの家庭であれば保存棚に必ず並んでいた、ただの甘い飲み物よ。こういう普通のものが、ここでは奇跡になる」
記憶の底で、甘い液体の味が蘇った。ウーラがやさしく出してくれた果実の飲み物。それは探索帰りの乾いた喉に沁みた。
「僕も、似たようなものを飲んだことがあります。向こうで」
「そうでしょうね」
ヘイルルーンは瓶を籠に戻し、布の蓋を被せ直す。
「これを飲んで、歩けなかった子供が歩けるようになったわ。種を明かせばただの栄養失調の解消よ。果実の糖分と塩分が、枯れかけた身体に水を引き戻しただけ。それだけのことで私は『聖女』と呼ばれている」
声には自嘲も誇りもなかった。井戸の水が石を打つ間隔と同じくらい、淡々と区切られた声だった。
「私はこうやって、地下都市の住民なら誰でも知っていたことを、聖教皇庁の教義に翻訳して生き延びてきた。これからも都市の住民であったことは言わないつもりよ」
風が井戸の上を吹き抜け、桶に残った水が小さく波立った。
「あなたに言ったのは、あなたの口の軽さが放っておけなかっただけ」
ナナハルトは何も返せなかった。口の軽さ、という言葉が胸の内側に刺さっていた。参謀室で彼が無邪気に口にした『第二プラント』の一言が、この女性にとってどれほど危険な響きだったか。彼女は自分の出自を隠して、何年もこの凍った王国で息を潜めて生きてきたのだ。
ヘイルルーンは籠を腕にかけ直し、建物の正面に回った。
孤児院の玄関先は丁寧に掃き清められ、入口の脇にスミレの鉢植えが一つ、冬の寒さの中で小さな紫の花を咲かせていた。
中に入った瞬間、暖炉の熱が頬を打った。古びた木の床には藁と毛布が敷かれ、子供たちが十人ほど身を寄せ合っている。栄養が足りないのか、大半の子供が年齢より幼く見え、薄い毛布を首まで引き上げていた。
「ヘイルルーン様!」
「今日もおくすり持ってきてくれたの?」
咳き込んでいた子供の一人が、這うようにして衣服の裾を引いた。ヘイルルーンは膝をつき、子供の額に手を当てて汗を拭った。
「熱は引いたわね。いい子にしてた?」
声が変わっていた。裏手の井戸端で聴いた乾いた警告が嘘のように、輪郭ごと柔らかくなった声だった。額の汗を拭う指先の加減も、身体を起こしてやる手の運びも、ひとつひとつ丁寧すぎるほどに慎重だった。
ヘイルルーンは籠から瓶を一本取り出した。先ほどナナハルトに見せた、琥珀色のシロップ。匙に注ぎ、子供の唇に運んだ、ちょうどその時だった。
「主の慈しみにより、この恵みが御身を温め、力を与えんことを」
背後から、低くよく響く祈りの声が重なった。
孤児院の入口に、白い法衣を纏った男が立っていた。銀糸の刺繍が施され、泥だらけの石畳を歩いてきたはずなのに、その白さだけが異質に清潔だった。聖教皇庁の修道騎士長、ルキウス・ヴァン・オーランド。
「ルキウス様」
ヘイルルーンはすぐさま立ち上がり、深く一礼した。参謀室での毒舌は影を潜め、謙虚な信徒の仮面が隙なく被されている。ルキウスの祈りに合わせ、修道女たちが頭を垂れ、子供たちが小さな手を胸の前で組んだ。
「ヘイルルーン殿。浄水の成果、実に見事だ。神の恩寵がもたらす清浄なる水と、その奇跡の薬。民の信仰の礎となるだろう」
「お褒めにあずかり、光栄でございます。すべては聖教皇庁の導きの賜物です」
ナナハルトの胃の奥が、ちりりと痛んだ。
子供たちを救っている実体は彼女の知識であるにも関わらず、それは教義の中に巻き取られ、教皇庁の権威を補強する道具に変わる。「聖女さまのお薬」は、今この瞬間ルキウスによって「神の恩寵」へと姿を変えられた。
ルキウスが振り返り、壁際にいたナナハルトに目を止めた。
「ナナハルト。見慣れぬ顔が修道女に紛れていると思えば、君か。訓練に励むだけでなく、教会の奉仕にも参加するとは感心だ」
「……浄水装置の修繕を手伝っただけです」
「良い行いだ。神は善き働きを為す者を祝福される」
ルキウスはナナハルトを見つめていた。穏やかに微笑んでいたが、その目は笑っていなかった。
それだけ言い残し、ルキウスは従者を伴って踵を返した。白い法衣が、泥の一滴も纏わずに孤児院を出ていく。
孤児院の裏口から猫が入ってきたのは、恩寵の余韻が残る、その直後だった。
痩せた三毛の野良猫が、暖を求めて開いた扉の隙間からするりと滑り込んだ。
「にゃんこだ!」
子供の一人が声を上げ、毛布から身を乗り出した。猫は子供たちの間を縫うように床を横切り、暖炉の前で丸くなろうとしていた。
ヘイルルーンの手が止まった。身体の芯ごと硬直したのが、ナナハルトの位置からも分かった。背骨を軸にして両肩が内側に巻き込まれ、呼吸が浅くなっている。結い上げた髪の生え際にうっすらと汗が浮いていた。ルキウスと対峙していた時の完璧な信徒の顔が、無残にひきつっている。
「ヘイルルーンさん?」
ナナハルトが声をかけた時、彼女は弾かれたように後ずさっていた。
「……少し、外の空気を吸ってくるわ」
声が微かに震えていた。扉に向かう足は速く、開けた扉の取手を握る指が白く強張っていた。王国で最も鋭い知性を持つと聞いた女性が、たかが痩せた野良猫一匹に背を向けて逃げ出すように部屋を出ていった。
修道女が困った顔で小さく頭を下げた。
「ヘイルルーン様は……猫がお苦手でいらっしゃるのです」
ナナハルトは笑わなかった。あの反応は、苦手で済むものではなかった。猫を見た瞬間に身体が強張るのは、嫌悪ではなく恐怖だ。しかも理屈で制御できない、身体に刻み込まれた種類の恐怖だった。
外に出ると、ヘイルルーンは孤児院の壁に背を預けて深呼吸をしていた。冬の冷気を肺いっぱいに引き込んでは吐き出し、白い息が壁に沿って立ち昇っては消えていく。結い上げた髪も姿勢も崩れてはいなかったが、目の焦点がどこにも合っていなかった。
ナナハルトは隣に立った。しばらく、二人とも黙っていた。壁の向こう側から、子供たちが猫をかまう笑い声がくぐもって聞こえてくる。
「猫が怖いのは……」
「ルカ。処刑執行を担当する防衛機構よ。普段は少年の姿だけど、黒猫の姿もとるわ。あれに追われた記憶が、身体に残っている」
ナナハルトの脳裏に、シルクハットを被った不遜な少年の姿が浮かんだ。あの黒猫が都市の通路を音もなく歩いていた光景を、ナナハルトも知っていた。あの一見ありふれた小さな影が、この女性にとっては死の執行者だったのだ。
「あなた、彼女のこと随分連れ回しているわね……あれが何なのか、本当に分かっているの?」
ヘイルルーンの言う『彼女』はエリの事だろう。ナナハルトは答えなかった。答える代わりに、言葉の裏にある確信を探るように、その横顔を見た。
ヘイルルーンが壁から身を起こし、ナナハルトに向き直った。
「あれは人間じゃないわ。あの地下の『母様』よね。一度だけ、見た事がある。ただ私に『不要なデータね』と告げた。感情などなく、ただそう一言だけ」
「エリは……」
「私はかつて、あの都市の規律を乱した重罪人よ。命を賭けて逃げた。なのに彼女は、私を覚えてすらいないのかもしれない。あるいは覚えていても、もう意味のないデータとして棄却したのかもしれない。……どちらにしても、あれは人間の認識ではないわ」
ヘイルルーンの声が、最後にほんの少しだけ震えた。
「数多の群体のうちの一つ。それが、彼女にとっての私。あなたが思っているような『心』は、あれにはないの」
ナナハルトは反論しなかった。反論する材料がなかったのではなく、ヘイルルーンの言葉の中に、否定しきれない真実の手触りがあったからだ。エリは確かに自分の名前を呼ぶ。確かに隣を歩く。だがそれが人間としての繋がりなのか、それとも観測対象へのラベリングなのか、ナナハルトには区別がつかなかった。
冬の風が、孤児院の壁を回り込んで吹き抜けた。スミレの鉢植えが揺れ、小さな紫の花弁が一枚だけ石畳の上に落ちた。
「……でも」
ナナハルトは拳を握った。
「あの子は、鷹の綿羽を壊さないように持っていました」
ヘイルルーンが眉を寄せた。
「分類のためなら握り潰しても問題ないはずの、薄い繊維を。壊さないように持っていた。……それだけは、システムの動作じゃない気がするんです」
ヘイルルーンは数秒、ナナハルトの横顔を見つめた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……あなた、不思議な子ね」
その声には、参謀室でも孤児院でも聞いたことのない、剥き出しの響きがあった。
「行くわよ。ルキウスが来る前に装置の最終点検を済ませないと」
ヘイルルーンは踵を返し、孤児院の中に戻っていった。ナナハルトはその背中を見送り、それから空を見上げた。
冬の空は高く、灰色で、どこまでも均一だった。




