朝の参謀室
昨夜の安い香水と酒精の匂いが、王城の参謀室にまだ淀んでいた。
「ハルグリム。お前、いい加減にしないか」
軍服の第一ボタンまで隙なく留めた細身の副官 ディートリヒが、書類の束を机に叩きつけた。普段は敬語の彼女もハルグリムに対しては言葉がきつくなる。銀の短い髪をきっちりと撫でつけ、長い前髪で片目を隠したその横顔は、端正だが神経質に引き締まっていた。
「何がだ。従姉妹どの」
ハルグリムは、同じ色の髪をはるかに無造作に流したまま、窓際の長椅子に半身を沈めて欠伸を噛み殺していた。シャツの襟元が乱れ、首筋に赤い痕が残っている。
「何が、ではない。朝の五時に女が廊下を歩いているのを衛兵に見られている。しかも素足で、お前の外套だけ引っかけた状態でだ。記録に残っているんだぞ」
「それは私の外套が上等だということだろう。彼女はものを見る目だけはあったな」
「お前の女運の話をしているんだ!!」
ディートリヒの声が裏返った。完璧に揃えていた帳簿の山を自分の拳で叩き崩してしまったことに気づき、見えている方の目が一瞬だけ痙攣する。机の端には、先週の銀食器紛失の始末書と、衛兵からの苦情報告が三通、未処理のまま積まれていた。すべてこの男の尻拭いだ。
「合理的に考えてくれ。私は別に深い関係を求めているわけではない。向こうが来るんだよ」
「来るのを断れと言っている」
「断る理由が、私の側にないな」
ディートリヒは天井を仰いだ。同じ師匠の下で学んだ同門であり、頭脳だけならこの王国で最も鋭い男。だがこと女に関しては、合理性というよりは単純に見る目がない。モテるくせに寄ってくるのはろくでもない女ばかりで、しかも本人にその自覚がまるでない。
「ハルグリム。せめてお前の女に、朝食を食い逃げさせるな。今月だけで予算が三回超過している」
「食い逃げ? 朝食は正当な対価ではないのかなあ」
「対価という概念をそこに持ち込むな!」
参謀室の扉が勢いよく開いたのは、ちょうどその時だった。
茶色い髪を完璧に結い上げた女が、数枚の設計図面を握りしめて入ってきた。唇は一文字に引き結ばれ、図面の端が皺になるほど強く握られている。
「ディートリヒ、あなたが引いた配管の流量計算が合わないわ。何度やってもね」
ヘイルルーンだった。王室助言者にして、聖教皇庁との連絡役。
「私の計算に間違いはありませんよ。ヘイルルーン」
ディートリヒが即座に反応した。先ほどまでの乱暴な言葉遣いは消え、実務家としての冷徹な顔に戻っている。
ヘイルルーンは机の上に図面を叩きつけるように広げた。孤児院に設置する浄水装置の構造図だった。配管の接合部と濾過槽の容量が手書きで修正されており、数字の上に赤い線が何本も引かれている。
「理論上は完璧なのよ。流量も圧力も、あなたの計算通り。なのに現場で組み上げると水の流れが止まる。三回試して三回とも同じところで詰まる」
「見せてくれ」
ハルグリムが長椅子から身を起こし、図面に目を落とした。欠伸の名残が消え、数秒の沈黙の後、指先が配管の接合部を辿った。
「ディートリヒの計算は合っている。接合部の径も要求通りだ。だが、現場の鋳鉄管の精度までは計算式に組み込めていないね」
「……部品の個体差ですって? そんなもので止まっているの」
ヘイルルーンの声が低くなった。指先が設計図の上を神経質に叩いている。ハルグリムの首筋に残る赤い痕が視界に入るたびに、叩く指のリズムが乱れた。
図面に視線を落としたまま、ヘイルルーンは奥歯を噛んだ。この男の分析がなければ先へ進めない。
「……あの、失礼します」
声は参謀室の入口から聞こえた。
ナナハルトが立っていた。訓練帰りらしく、革鎧の上に汗を拭いた布を肩にかけている。亜麻色の髪が額に張り付いていた。右手の人差し指と中指の腹に、ディートリヒの課題で付いたインクの染みが黒く残っている。
「エルヴィンさんに頼まれて、盾の修繕用の金具を届けに来たんですが……」
三人の視線が一斉にナナハルトに向いた。少年は一歩退きかけたが、机の上に広がった設計図が目に入った瞬間、足が止まった。
「それ、浄水装置の設計図ですか」
ヘイルルーンが眉を上げた。
「知っているの?」
「第二プラントと、同じ構造です。濾過槽の後段に減圧弁を置いて、二段階で不純物を沈殿させる方式……」
ディートリヒが帳面の上で手を止めた。ハルグリムの目から、面白がるような光がスッと消えた。
(第二プラント。稼働中の深部区画。あの少女は管理者だと言っていた――遺跡ではなかったのか)
息を呑んだのはヘイルルーンだった。灰色の瞳が、信じられないものを見るように少年の横顔を凝視していた。
ナナハルトは金具の入った袋を机の隅に置くと、そのまま設計図に身を乗り出した。指先が配管の接合部をなぞり、そこで止まった。
「ここだ。ここの径が一つ太い。理論上は余裕を持たせた方がいいんですけど、実際はこの接合部で圧力差が生まれて乱流が起きるんです。音で分かります。エリュシオンでこの手の装置を組んだ時、師匠に何度も直させられました」
(師匠……? この少年は、あの少女に色々と教わっただけではないのか?)
ハルグリムの目が細くなった。長椅子の上の姿勢は変わらなかったが、欠伸の気配は完全に消えていた。
ナナハルトは設計図の接合部の横を指で軽く弾いた。紙の下の机から、乾いた響きが返る。
「この音。詰まっている配管はもっと堅い音になるはずです。正しく流れていれば、もう少し水っぽい共鳴音がする」
しんと静まり返った室内に、ナナハルトはようやく弾いていた指を止めた。三人の視線が自分に集中していることに気づき、首を傾げる。
「あの……。急に静かになられると、返って調子が狂うんです。何か、僕……変なこと言いました?」
「……直せる?」
真っ先に声を絞り出したのはヘイルルーンだった。図面の端を折り返す指が、小刻みに震えている。
「径を一つ落として、ここに絞り弁を入れれば。現場で二時間もあれば」
「来なさい」
ヘイルルーンは設計図を巻き上げ、ナナハルトの肩を掴んだ。掴んでから自分の行動に少し驚いたように手を離し、代わりに顎で出口を示した。
「孤児院に行くわ。今日中に完成させる」
「今回は聖遺物関連の修理ではないから、エリの同行は必要ないですね。このまま持ち場を離れて大丈夫ですか?」
ナナハルトはディートリヒとハルグリムに目配せした。ディートリヒが「行け」と短く頷き、ハルグリムが片手を上げて見送った。
「面白い少年だな」
二人が出ていった後、ハルグリムが呟いた。長椅子に背を預け直し、天井を見上げている。
「……面白い、で済ませるな。あの少年の知識は体系的だ。独学ではない。誰かに教わっている。そう、『師匠』とやらにな」
ディートリヒの声は低く、硬かった。帳面を閉じながら、同門の参謀を横目で見た。
「分かっている」
ハルグリムは答えた。長椅子に沈めた身体は動かさず、天井を見つめたまま。だが声だけが、さきほどまでとは異なる響きをしていた。




