焚き火の向こう側
冬の日没は早く、午後の訓練を終える頃には空が藍色に沈み、やがて黒に染まった。星が出た。遮るもののない山麓の空には、地下都市の模造の空とは比べものにならないほど星が近く、冷たく光っていた。
騎士たちは焚き火を囲んでいた。酒を回し飲み、声を張り上げて笑い、鍛錬の疲れを忘れたように肩を組んで歌った。ブランドが酔って「チビ、一曲やれよ」と叫び、ロルフがそれに乗って手を叩き、ディートリヒが「明日に響く」と苦い顔をした。
ナナハルトは少し離れた場所に座っていた。焚き火の光が届くぎりぎりの位置で、火の暖かさと夜気の冷たさが背中で入れ替わる境目にいた。手を雪で洗い直していた。昼間の解体で指に染みていた血の匂いは既に消えていたが、それでも何度か雪を握っては指の間を擦った。
洗い終えた手で、カリンバを取り出した。金属の鍵が夜気に触れて冷たかったが、親指の腹が最初の一音に触れた瞬間、振動が指先から手首を伝って胸に届いた。カリンバはいつでも同じ温度で応える。弦であれ鍵であれ、楽器の金属は弾いた瞬間だけ体温と同化する。
旋律が流れ始めた。
妹のリーゼルに約束した曲の変奏だった。五音の繰り返しを核にしながら、焚き火が爆ぜる音や木々のざわめきを無意識に拾い上げて旋律に編み込んでいく。指先は、かつてよりも確かに鍵を掴み、だが音の中にはまだ素朴な拙さが残っていた。完璧ではないことが、この音楽を冬の夜に馴染ませていた。
騎士たちの声が少しずつ静かになった。全員が聴き入っているわけではない。酔いの中で自然と声量が落ち、歌が途切れ、焚き火の爆ぜる音とカリンバの旋律だけが夜気を満たしていった。エルヴィンが目を閉じていた。アデルベルトが火を見つめていた。ロルフが仰向けに寝転がって星を見上げていた。
ナナハルトの指が最後の一音を弾いた時、夜の森に静寂が落ちた。冬の谷を吹き抜ける風の音だけが、遠くでかすかに響いていた。
その時、空気が変わった。焚き火の光の届かない暗がりの方向から汗と獣脂の匂いが染みついたこの空間に、それらのどれとも異なる清浄な気配が一筋、混じり込んだ。
暗闇と同化していた気配が、ふいと実体を結ぶ。
闇の中に、少女が立っていた。足音も呼吸音も立ない黒衣の輪郭は、見慣れた少女のものだ。
「エリ」
ナナハルトの声は小さかった。騎士たちには聞こえていない。酒に沈んだ男たちは、闇の向こうに立つ少女に気づいていなかった。
エリは黙ったまま、小さく頷いた。こくん、と。動作はいつも通り正確で、首の傾きの角度も復元も、人間が無意識に行う微妙なぶれを含まなかった。
「今日の狩り、見てた?」
「あなたの音が聞こえたから、来たの」
エリの声は平坦だった。
ナナハルトの視線が、エリの手元に落ちた。黒い手袋に包まれた細い指の先に、白いものがあった。
昼間にアデルベルトの猟鷹から、ふわりと抜け落ちた綿羽の一枚。ナナハルトの外套の裾に引っ付いていたものを、いつの間にか拾い上げていたらしい。
エリはその羽毛を指先で摘まみ、ゆっくりと目の前に掲げた。瞳が羽毛の端から端まで這い、複雑な機構の接合部を確かめるような手つきで回していた。何かの判定はとうに済んでいるらしい。それでも指先から放さなかった。
「不合理なの。こんなに軽いのに、消えない」
声の調子は変わらなかった。だが、不合理という言葉を口にしたまま、指先は羽毛を放さなかった。
「生きているからだよ。空の風と雪の寒さに耐えられるように、あの鷹の身体の中で育ったんだ」
エリの視線が、ほんの一瞬だけ、羽毛からナナハルトの顔に移った。
移って、戻った。
焚き火の方で誰かが寝返りを打ち、薪が崩れて火の粉が舞った。橙色の光がエリの位置まで届かずに、途中で闇に呑まれた。
エリは羽毛をじっと見つめたまま、何も言わなかった。
やがて、白い指先が羽毛をそっと放した。夜風に乗って、羽毛はゆっくりと闇の中へ消えていった。
「増えたのね。あなたの居場所」
答えようとした時には、エリは既に踵を返していた。
カリンバの鍵に指を戻した時、エリはもうそこにいなかった。再び暗闇に溶けた気配が、冷たい空気のかすかな揺れとして頬に触れただけだった。
焚き火が最後の炎を上げて崩れ落ちた。熾火の赤い光が雪面を染め、騎士たちの寝息が夜気に溶けていく。ナナハルトは立ち上がり、エリが立っていた場所を見つめた。
焚き火の残り火が、まだ足元で赤く瞬いていて暖かかった。
カリンバを腰に戻して毛皮の外套を引き寄せた。明日もまた雪が降り、訓練は続くだろう。エリが言うように今はここが自分の居場所だ。
星空を見上げた。地下都市の模造の空とは違う本物の空は、ただ冷たく、どこまでも遠かった。




