小刀と父の手
訓練場に戻ると、各班が獲物を持ち寄って集めていた。
焚き火が組まれ、大きな鍋に雪を溶かした水が沸き始めている。男たちが武具を外して身体を温める中、獲物の山を前にして誰ともなく顔を見合わせた。仕留めるのは得意でも、獲物を食えるようにするのは別の技術だった。
何度か試したことはある。
だが血抜きが甘く、肉に臭みが残り、結局は鍋に放り込んで誤魔化すしかなかった。
食えはするが、うまくはない――それがこの隊の現実だった。
「血抜きと毛皮の処理、やっちゃっていいですか」
ナナハルトの声に、周囲の視線が集まった。
「父さんに教わったので」
探索者は長期に渡って未開の地を旅する。町に寄らずに食料を調達してみずから食用にするのは幼い頃から叩き込まれた。
腰の工具袋から小刀を取り出した。刃渡りは短く、柄は磨り減った木で、すでに使い込んでいるものだ。ナナハルトは仕留めた大猪の巨体を前にして、手際よく太い紐で後ろ脚を立ち木の太枝に吊るした。
手は迷わない。見た瞬間に、どこから切るか決まっている。
小刀の刃先が厚い獣皮の下に滑り込み、結合組織の薄い層を正確に辿って切り進む。
巨体相手でも力任せにせず、肉と皮を傷つけずに剥がしていく手順だ。血液は最初の一手で頸動脈から抜いてあり、雪の上を赤く染める量は最小限に収まっている。毛皮は破れることなく一枚で剥がれ、裏返した内側には脂肪の薄い膜だけが均一に残った。
ブランドが鍋の前で手を止めて振り返った。アデルベルトが腕を組んで見ていた。ロルフが口を半開きにしたまま動けなくなり、「……は?」と声が漏れた。
ディートリヒが懐中時計を一瞥し、帳面に何か書きつけた。
「……待て、それ」
アデルベルトが思わず口を挟んだ。その目は、ナナハルトの指先が描く無駄のない軌跡に釘付けになっていた。剣を振るうのとは別の次元で、研ぎ澄まされた精度。
「なんでそんなに血が残らねえんだ」
ナナハルトは手を止めずに答えた。
「最初に抜いてるから」
「最初にって、あの一瞬でか?」
周囲の騎士たちからも、低いうめきのような吐息が漏れた。獲物を捌けば、普通は血と臓物の臭気で顔を背ける。だがナナハルトの手元には、それがない。雪の匂いしかしなかった。
「俺たちがやると、どうしても残るんだよなあ。臭くなってよ……」
ロルフがぼそっと言った。腕を組んで首を傾げている。切実な悩みを語っているのに、声に深刻さがない。
ナナハルトは大鹿の処理に移った。刃の角度、力の入れ方、皮を引く速さ。すべてが一定のリズムで繰り返される。その手つきは淡々と正確だった。肉を腐らせない。皮を損なわない。父が何百回と見せた手順を、指が覚えている。それだけのことだった。
巨大な猪と鹿の解体が、驚くほど手際よく進む中、男たちが黙った。荒事に慣れた屈強な騎士たちが、十六歳の少年の手元を食い入るように見つめている。誰も口を挟まなかった。
「エルヴィンさん」
ロルフが横を向いて老騎士に囁いた。
「あいつ、剣はからっきしだけど、あの手つきは本物ですよ」
エルヴィンは答えなかった。腕を組んだまま焚き火の向こうでナナハルトの手元を見つめていた。古傷の走る顔に浮かぶ表情は読み取りにくかったが、瞳の奥に、詰所での五日間には見えなかった光があった。
ナナハルトが最後の一頭の処理を終え、小刀を雪で拭って腰に収めた時、エルヴィンが口を開いた。
「……無駄がないな」
声が低く、よく通った。騎士たちの雑談が一瞬止まるほどの静けさを持った声だった。
「それを、独学でやったのか」
「いえ。父に教えてもらいました」
「お前の父は、いい探索者だった」
ナナハルトの手が止まった。
小刀を仕舞いかけた指が、柄を握ったまま動かなくなった。
五日間、一度も口を開かなかった老兵が、今、初めて声を発した。
ナナハルトは笑った。自分にとっては当たり前のことだった。父に教わった通りにしただけだ。だが、この場にいる男たちがそれを認めてくれたという事実が、じわりと胸に染みた。目の奥が熱くなって、慌てて雪を掬って顔を拭った。
「父にそう伝えたかったです。ありがとうございます」
アデルベルトがナナハルトの肩をばん、と叩いた。
「……今度、俺のぶんも捌いてくれ。技師殿」
声は素っ気なかった。だが「技師殿」の響きが、朝の水汲みを急かしたときとは違っていた。
騎士たちが解体された肉を鍋に放り込み始めた喧噪の中で、エルヴィンが傍らのディートリヒに低く言った。
「あの手先と目を遊ばせるな。剣の稽古の後に、報告書の書き方と見取り図の引き方を教えてやれ」
ディートリヒは帳面から顔を上げ、ナナハルトの血に汚れていない手元を一瞥した。
「……了解しました。あの精度なら、文字も図面も早いでしょう」
ナナハルトの耳には届いていなかった。ロルフに腕を引っ張られて鍋の前に座らされ、器を押しつけられている最中だった。
刃物の音が止み、代わりに大鍋の煮たつ音が響いていた。ナナハルトが処理した肉は雑穀と共に煮込まれ、血抜きの行き届いた澄んだ湯気が男たちの間に立ち上った。凍えた手で器を受け取る騎士たちの顔に、温かい色が灯っていた。
「うまっ……。なんだこれ、いつもと全然違うぞ」
ロルフが目を丸くして鍋を覗き込んだ。
「血抜きが綺麗だと、肉の味が変わるんですよ。臭みがなくなるから」
「お前さ、ずっとここにいてくれない? 毎日この飯食いたいんだけど」
ナナハルトは苦笑した。ロルフの言葉は冗談めいていたが、この弓使いは冗談を装って本気を言うタイプなのだと、五日間でようやく分かり始めていた。




