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詰所の朝

【これまでのあらすじ】


北方の貧しい探索者の少年・ナナハルトは、地下深くの古代都市『エリュシオン』で、都市そのものを管理する少女・エリと出会う。


音で世界を捉える少年と、感情を持たないはずの少女。

二人の不揃いな合奏は、停滞していた地下の理想郷に柔らかな変化をもたらした。


ナナハルトが探索者として地上へ持ち帰った都市の『地下都市の部品』は、地下都市を密かに痛め続けていた。


エリはエーテル漏出の発生源の情報を得るため、ハナハルトと地上へ出る。

初めて地上の空と太陽を知り、理由のない思いを抱き始めるエリ。


ナナハルトの持ち出した部品は、若き王ソスヴァルドに見出されていた。

ナナハルトはエリと共に王と対面し、王国の従士団へと招かれる。


第三部「女神と呼ばれた少女」編、開幕。

 従士団に加わって、五日が過ぎた。ナナハルトはまだ、この場所に馴染めずにいる。


 詰所の朝は早い。日が昇る前に起き、石の床に薪を足し、水を汲み、武具の手入れをしてから朝食をとる。それは探索者の生活とさほど変わらない。違うのは、すべてを一人ではなく十数人と一緒にやるということだった。


 ナナハルトの寝台は入口に最も近い位置、つまり最も格の低い場所にあった。冬の隙間風が直接吹き込む。毛布を二枚重ねても足先が冷えた。


「おい、新入り。水汲みまだか」


 アデルベルトだった。赤い髪を後ろに掻き上げながら、寝台から身を起こしている。きりっとした目元には、露骨な不信感があった。


「今やってます」


「遅い。お前が来る前は、俺がこの隊で一番下だった。つまりお前が引き継ぐのは当然だが、俺の倍は遅い」


 ナナハルトは黙って水桶を担いだ。言い返す余裕がなかった。


 奥歯を噛んだ。木剣の柄の跡が、掌にまだ残っていた。


 朝の稽古で木剣を握れば、アデルベルトとの差は一目瞭然だった。アデルベルトの剣は鋭い。同世代で一番と言われる切れ味が、容赦なくナナハルトの防御を崩す。三合で叩き伏せられる。そのたびにアデルベルトは「ふん」と鼻を鳴らし、汗も拭かずに次の相手を探しに行った。


「まあまあ」


 稽古場の隅で弦の手入れをしていたロルフが、欠伸混じりに声をかけた。栗毛にそばかす。細い目がいつも笑っている。


「アデルベルトはああいう奴だから。気にしない方がいいよー」


「でも、僕が弱いのは事実ですから」


「弱い? まあねぇ。でもさ、強い奴なんてここに来ればいくらでもいるんだよ。問題は、強い奴にできないことをできるかどうかでしょ」


 ロルフの声には棘がなかった。ないどころか、張りもない。場の温度を上げも下げもしない、不思議な人間だった。弦を張り替える手つきだけが妙に精確で、その指先を見ていると、この男が弓を引いた瞬間に別の生き物になるのだろうという予感だけがあった。


「ロルフさんは、僕が入ってきたとき、どう思いました?」


「んー? 面白い奴が来たなぁって。だって音楽だよ? この詰所でそんなこと言った奴、初めてだもん」


 ロルフはへらりと笑った。ナナハルトは助けられた気がしたが、同時に、この弓使いの言葉がどこまで本気なのか掴めなかった。


 ブランドは、最初から「チビ」と呼んだ。悪意ではない。茶髪の大男は声がでかく、結論から先に言い、理由はほとんど言わない。ナナハルトを一瞥して「剣はからっきしだな」と断じた翌日には、もう興味を失ったように背を向けていた。だが訓練場の隅で、足跡を読むナナハルトの手元だけは、黙って見ていた。


 ある朝、ソスヴァルド王が詰所に視察に来た。ブランドは壁に背を預けたまま、王に向かって顎をしゃくった。


「おい王様、あのチビな。剣は話にならねえが、足跡読みと獣の解体は使える。あの手際は戦場でも腐らねえよ」


 王に向かってタメ口同然の口のきき方をしても、ソスヴァルド王は眉一つ動かさなかった。むしろ碧眼を細めて「お前がそう言うなら、見ておく」と応じた。ブランドはソスヴァルド王の幼馴染だった。


 ルキウスは全く別の空気を纏っていた。聖教皇庁から派遣された修道騎士は、泥と汗にまみれた従士たちの中にあって一人だけ純白の法衣を汚さず、銀細工のプロテクターが磨き上げられている。三十半ばの端正な顔立ちに、低く穏やかな声。


 だが稽古場で剣を振れば、その美しい剣筋は息を呑むものだった。無駄のない払い。正統な型。ナナハルトが木剣で向かった時、ルキウスは力で叩き伏せず、するりと刃筋を流して体勢を崩させた。訓練場の荒い剣とは別の次元にある、静かな剣術。


「焦らなくていいのだよ。ナナハルト」


 ルキウスの声は穏やかで、低く、諭すように響いた。


「神は、急がぬ者をお導きになるのだから」


 宗教家の言葉だった。だがその声は、説教壇の上から降ろすものではなかった。ナナハルトの目の高さで、ナナハルトに向けて発されていた。


 ディートリヒは逆に、ほとんど声をかけてこなかった。銀髪をきっちり撫でつけた副官は、帳面に何かを書きつけながら、ときどきナナハルトの方を見て目を細めた。


 そして、エルヴィンは。


 白髪交じりの老騎士は、ナナハルトに一度も声をかけなかった。


 暖炉の横の定位置に、いつもあの老騎士がいた。古傷の走る顔は微動だにせず、同じ角度からナナハルトの稽古を見ている。アデルベルトに叩き伏せられても、腕を組んだまま一度も口を開かない。


 彼が座る長椅子だけが、一度も軋むことがなかった。その微動だにしない沈黙の重さの中で動く時だけ、ナナハルトの手足はわずかに強張った。

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