引っ越し
従士団に加わってから十日が経った頃、ゲルダとリーゼルが王都に引っ越してきた。
王城の城下町に、店舗と工房を兼ねた石造りの家が一軒用意されていた。ソスヴァルドからの個人的な投資だった。
『あの精緻な機械機構を即座に把握した少年の目は、時計職人である母親の教育の賜物だろう。ぜひ王都の職人組合で、その腕を振るってもらいたい』
そんな王からの直接のオファーに、根っからの職人であるゲルダは「そこまで言われちゃ、田舎に引っ込んでもいられないね」と、村の店をあっさりと長年の弟子に譲って上京してきたのだった。
与えられた新居で、彼女は「王都の連中は歯車の噛み合わせが甘いんだよ」と鼻を鳴らし、到着したその日からさっそく店の看板を磨き始めている。ナナハルトは、どこに行っても変わらない母の逞しい背中に、密かに安堵の息を吐いた。
王都の冬は、村のそれとは違っていた。
石畳の道は雪が踏み固められて硬く、建物の壁は厚い石と漆喰で冷気を遮っている。路地には煙突から上る煙が漂い、パン焼きの窯と馬糞と松脂の匂いが混じった空気が流れていた。
そして何より目を引くのは、街の中心に立つ石造りの教会だった。村にある小さな木造の礼拝堂に比べればはるかに立派で、その尖塔からは王都の隅々まで届くような鐘の音が響いている。まだヴィンターガルド王国において、教会の力が無視できない比重を占めていることを、その佇まいが物語っていた。
人が多い。行商人の声、荷馬車の車輪が石を削る音、井戸端で水を汲む女たちの話し声や、教会から鳴り響く荘厳な鐘の音。村では聞いたことのない密度の喧騒が、朝から晩まで途切れなかった。
ナナハルトは従士団の服を着ていた。革のベストと厚手の外套、腰には工具袋が下がっている。胸元に小さく縫い付けられた雪結晶の徽章が、彼がもう一介の探索者ではないことを示していた。
引っ越しの荷物を運び入れた帰り道、ナナハルトは新しい家の前の通りを歩いていた。冬の空は灰色で、時折、粉雪が舞った。
「頑張ってね、従士さん」
通りすがりの老婆が声をかけてきた。ナナハルトが驚いて振り返ると、老婆は歯の欠けた口で笑い、隣の若い女も手を振った。
「揚水機を動かしたのがあんただって聞いたよ。うちの井戸、やっと水が出るようになったんだ」
ナナハルトは頭を下げた。胸の奥が温かくなった。自分の音楽が、この街の水になった。目に見える形で、人の暮らしを変えた。
その温かさの中を歩いていたとき、胸元で何かが光った。
外套の合わせ目の内側に留めてあった、小さな金属のブローチ。鴉をかたどった細工物で、翼を広げた姿が精緻に刻まれている。エリュシオンを発つ前にクイルから渡されたものだった。
『何かあったときの呼び声の鍵です。あなたと、そのブローチと、わたしとの三点で周波数を維持しています。異常があればお知らせしますし、あなたからも声を届けられます』
クイルがそう言っていたのを思い出した。これまで一度も光ったことはなかった。
だが今、鴉のブローチの腹に嵌め込まれた小さな鉱石が、赤い光を一度だけ放った。
微かな、しかし確かな明滅だった。
ナナハルトの足が止まった。
周囲を見回した。通りの人波は変わらず流れている。パン焼きの煙、荷車の音、子どもの笑い声。何も異常はない。だが鴉の目が、確かに赤く瞬いた。
ナナハルトはブローチを掌に乗せ、指先で鴉の背に触れた。金属は冷たかった。光は消えていた。
「エリ」
呟いた。クイルが言っていた通り、意識を集中すれば声が届くはずだった。
「エリ、聞こえる? 鴉のブローチが光ったんだ。何かあった?」
数秒の沈黙があった。
そして、耳の奥に声が届いた。クイルのブローチを介した通信は、鼓膜の向こう側に直接触れてくるような、不思議な伝わり方をした。
「……確認するわ」
エリの声だった。
「都市の深部で、微かなリズムの乱れを観測しただけよ。主要システムに異常はない」
「リズムの乱れ?」
「エーテル循環の基底周波数にわずかな揺らぎが発生したの。原因はまだ特定できていない。影響は軽微。気にしなくていい」
エリの声は平坦だった。だが最後の「気にしなくていい」の末尾に、微かなノイズが混じった。通信の乱れか、それとも。
「……わかった。何かあったら、また教えて」
「ええ」
通信が途切れた。
ナナハルトは鴉のブローチを見つめた。赤い光はもう戻ってこない。金属は冷たく、沈黙していた。
空を見上げた。灰色の冬空の向こうに、地下のどこかで、悠久の時を生きた都市が静かに呼吸している。その呼吸のリズムが、わずかに乱れた。それだけのことだ。エリがそう言った。気にしなくていい。
ナナハルトはブローチを外套の内側に戻し、歩き出した。
王都の通りは活気に満ちていた。鍛冶屋の槌音が響き、煙突からは白い煙が上がり、子どもたちが雪の塊を投げ合って駆け回っている。冬は厳しい。だが、この街には、冬を超えようとする人間の熱量があった。
ナナハルトの足取りは軽かった。
従士団の仲間がいる。王の言葉がある。母とリーゼルが、この街で暮らし始めた。自分の技術が、この国の冬を変えられるかもしれない。背中の荷物はいつもより重かったが、歩く足は確かだった。
通りの端で、リーゼルが新しい家の窓から手を振っていた。ナナハルトは手を振り返す。
その足元に落ちる冬の影の中で、鴉のブローチは黙ったままだった。




