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従士団への招待

 従士団の詰所は、王城の外壁に沿った長屋の一角にあった。


 石と木組みの建物で、屋根には雪が残っていた。入り口の木戸は分厚く、蝶番の鉄が錆びている。ナナハルトが戸を引くと、蝋と汗と鉄錆の混じった匂いが鼻を突いた。


 中は広かった。石造りの床に長い机が並び、壁には武具掛けが並んでいる。剣があり、槍があり、弓があった。使い込まれた革鎧が椅子の背にかけられ、磨き布と油壺がそこかしこに転がっている。暖炉の火が部屋の奥で燃えていた。


 ナナハルトが入ると、研ぎ石を滑らせる音と談笑が途絶えた。

 剣に油を塗っていた大きな手が止まった。弦を調整していた弓使いが顔を上げた。壁際の老兵が腕を組んだまま片目を開けた。


 沈黙が落ちた。


 ナナハルトの足が竦んだ。この場にいる男たちの身体は、一人の例外なく屈強だった。腕の太さ、肩幅、手の甲に走る傷跡。戦うことを生業とする人間の身体が、暖炉の光に照らされて並んでいた。


「来たか」


 奥から声がした。ソスヴァルド王が暖炉の傍に立っていた。今日は簡素な上着ではなく、革鎧の上に毛皮の外套を羽織っていた。従士団の一員としての装いだった。


「紹介しよう。今日から仲間になる男だ」


 王がナナハルトの肩に手を置いた。その手の重みで、少し足が安定した。


「名乗れ。ここでの流儀で」


「アデルベルト、アルデンの子だ」


 赤い髪の少年が真っ先に立ち上がった。ナナハルトと同じか、一つ年上ぐらいに見える。顎を上げ、声を張った。


「ブランド、ヘルガルの子だ。よろしくな、チビ」


 大柄な茶髪の男は立ち上がらなかった。剣に油を塗る手も止めない。がっしりした体躯で、顎に無精髭がある。口角だけを上げた。


「ディートリヒ、フォルケンの子です。以後、よろしく」


 銀髪で片目を髪で隠した細身の副官が、座ったまま几帳面に頭を下げた。


「エルヴィン、グラウルの子だ」


 白髪交じりの老兵が、椅子の背にもたれたまま片手を上げた。穏やかだが、よく通る声だった。


「ロルフ、ヨルンの子。まあ、よろしくー」


 栗毛でそばかすのある弓使いが、弦の手入れを続けながら笑った。


 一人ずつが名乗るたびに、ナナハルトの胸に奇妙な感覚が広がっていった。


 全員が、父の名を冠して名乗っている。


 アルデンの子。ヘルガルの子。フォルケンの子。グラウルの子。ヨルンの子。自分がどこから来たのか、誰の血を引いているのか。それを最初に示すのが、この場の作法だった。


 ナナハルトの口が乾いた。


「えっと……僕も、そう名乗るんですか」


 ブランドが「そうだな」と低く応じた。口角だけがわずかに上がっていた。


 ナナハルトは唾を飲み込み、声を絞り出した。自分の父は戦士ではない。この場に並ぶ英雄たちの名に連なるような、誇らしい武勇があるわけでもない。ただの、泥にまみれた探索者だった。


「……ただの、ナナハルトです」


 アデルベルトが眉を寄せた。老騎士エルヴィンの椅子が小さく軋んだ。


 壁際で立っていた持たれていた人物が一前に出た。純白の法衣。泥と錆粉にまみれたこの詰所にあって、その布の白さだけが異常に浮いていた。銀細工の胸当てが暖炉の熱を弾き返すように鈍く光っている。


「――ルキウス・ヴァン・オーランドだ」


 低い声だった。他の全員が父の名を冠して名乗る中、この男だけが家名を用いてきた。


「聖教皇庁から派遣された修道騎士だ。異端審問官として従軍に参加している。王国のものではないが、仲間だと思ってもらえばいい」


 旅の道中で聞いたクレーナの警告が蘇った。『特に聖職者と名乗る者には絶対に見せるな』

 聖職者どころではない。異端審問官だ。ナナハルトの首筋を、冷たい汗が伝った。


 エリは壁際に立っていた。深いフードが頭部を完全に覆っている。ルキウスの目がその小さな影の上を通り過ぎた。一瞬。ただの従者か、あるいは市井の少女だと判じたのか、それ以上の関心は向けられなかった。


 エリ自身は微動だにしなかった。フードの奥に、金の瞳が暖炉の炎を冷静に映しているのが、ナナハルトの位置からだけ見えた。


 シャツの下に嫌な汗が滲んだ。ルキウスが礼節正しく頭を下げる。法衣の下で、磨き上げられた銀の胸当てが微かに擦れる音がした。無数の傷と鉄錆にまみれたこの場所で、彼の纏う手入れの行き届いた金属音だけが、異物のように響いていた。


「そんなに固まるなよ」


 肩を叩かれた。振り返ると、栗毛の弓使いロルフが笑っていた。そばかすの散った顔が暖炉の光に照らされ、目が細く弧を描いている。


「お前、得意なものはなんだ?」


「えっと」


 ナナハルトは自分の手を見下ろした。弦の跡が残った指先。


「修理、とか。あと、音楽です」


 詰所の空気が揺れた。


 男たちが一斉に笑ったのだ。アデルベルトが呆れた顔で天井を仰ぎ、ディートリヒが眉を上げ、ロルフ自身が肩を震わせた。ブランドは笑わなかった。大柄な身体を椅子の背にもたれさせたまま、ナナハルトの弦の跡が残った指先を、一瞬だけ見た。


 ナナハルトの耳が熱くなった。


 笑いが収まりきらない空気の中で、一つの声が静かに割り込んだ。


「笑うな」


 ソスヴァルド王だった。


 王は微笑んでもいなかった。笑いが引いた。革を磨く手が止まり、研ぎ石が机の上に置かれた。


「彼は、我々の冬を終わらせる光だ」


 ソスヴァルド王の声は大きくなかった。だが、詰所の石壁に染み込むような浸透力があった。


「昨日、七年間止まっていた揚水機を、彼が動かした。弦を弾いただけで。彼の音楽や修理の技術は我々の力になるだろう。お前たちの鎧も、武器も、明日には新しい力を宿すかもしれない。それに彼は腕利きの『探索者』だ。この歳で単独で成果を上げている。体力面ではお前達より優れているかもしれない。私が直々に声をかけた。従士団への新しい風だ。大いに期待している」


 沈黙。


 ブランドの笑いが完全に消えていた。アデルベルトが背筋を伸ばした。エルヴィンが静かに頷いた。ディートリヒが腕を組み直した。ロルフだけが変わらず笑っていた。

 ナナハルトは、自分の声がどこかに消えてしまったような感覚の中で、ようやく一つの言葉を絞り出した。


「……はい」


 震えていた。声だけではなく、指先も、膝も。


 だが、震えている手とは裏腹に、足は床にしっかりと着いていた。

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