王の言葉
揚水機が息を吹き返した翌朝。
王城の客室で目を覚ましたナナハルトが外套に袖を通していると、扉が三度叩かれた。開けると、革鎧の従者が一人立っていた。
「陛下がお呼びです。お連れの方もご一緒に」
お連れの方。ナナハルトは部屋の奥を振り返る。窓辺の椅子に腰かけたエリが、灰緑のケープのフードを深く被ったまま、こちらを見ていた。
「行こう、エリ」
エリは黙って立ち上がった。
通されたのは、暖炉のある小部屋だった。石壁の隙間を塞ぐように分厚い毛皮の壁掛けが吊られ、暖炉の火が部屋全体を橙色に染めていた。王の私室に近い場所だと、案内した従者が小声で教えてくれた。
ソスヴァルド王は立っていた。
今日は剣帯を締めていなかった。簡素な上着に革のベルト、足元は使い込まれた長靴。王という看板を外した格好で、暖炉の前に立って火を見つめていた。
「来てくれたか、ナナハルト」
ソスヴァルド王は振り返り、深い眼窩に暖炉の影が落ちる中で、穏やかに目を細めた。
「座ってくれ」
ソスヴァルド王はナナハルトに椅子をすすめ、ナナハルトが座るとすぐ正面に座った。間にある机は小さく、向かい合う二つの椅子の距離は、極端なほど近い。
ナナハルトは、緊張して、背もたれに体を預けることができなかった。
エリは椅子に座らず、部屋の隅の壁際に立ったままだ。フードの奥から、暖炉の火を映す金の光が一瞬だけ覗いた。この会話に積極的に参加するつもりはなさそうだ。
「ナナハルト。お前は昨日、何をしたと思う?」
声は深く、低かった。
それだけなのに、ナナハルトは一瞬、返事を忘れた。
「揚水機を……動かしました」
「そうだな」
ソスヴァルド王は深く頷いた。その短い肯定の余韻が、暖炉の音よりも長く石壁に残った。
「七年間、氷に閉ざされていた死骸を、お前は命あるものに戻した」
王は、言葉を一段ずつ積み上げていくように語りかける。
「この国には、目覚めを待つ遺産がまだいくつもある。地下の闇で、かつて誰かが心血を注ぎ、使い、そして力尽きて手放したものが。……それを起こし、光を与えられる人間がいるとしたら、お前はどう使うべきだと思う?」
ナナハルトの口が開きかけて、止まった。答えが見つからない。
ソスヴァルド王は黙っていた。焦りもしなければ、助け舟も出さない。
薪が一本崩れ、火の粉が舞い上がるまでの長い沈黙を、王はまるで慣れた風景のように受け流した。
「俺はな、ナナハルト」
ソスヴァルド王がナナハルトを覗き込んだ。強く見つめられると、次に何を考えていたのか、思い出せなくなった。
「使えるものを使わない、という選択が、この世で最も多くの人を殺し、最も深く未来を損なうと思っている」
一音ずつ、骨の奥まで沈み込んでくるような声。
「冬は平等だ。善人も悪人も、老人も赤子も、関係なく、ただ冷徹に熱を奪い、土に還していく。……だが、人は平等じゃない。成すべきことがある奴と、ただ立ち尽くすしかない奴がいる。お前は、成すべきことがある側だ」
指先が痺れていた。ずっと自分の中にあったものを、名前にされたような。
「ナナハルト。お前はどうしたい」
「家に帰って、安らかな音楽を奏でるのもいい。それは間違いなく、尊く、正しいことだ。だが、その音で、この国から冬という概念を消し去ることもできる」
足元が傾いだ気がした。
「俺はお前に命令はしない。お前の人生だ。……ただ、これだけは覚えておいてくれ」
「誰が戦場に行くべきか、誰を安全な場所に留めておくべきか、俺は、その判断に命を懸けている。……二度と、間違えたくないんだ。お前の父親のような男を、不当に失うような過ちをな」
ナナハルトの呼吸が止まっていた。逃げ道はどこにもなかった。
「ナナハルト」
もう一度、祈りのように名前が呼ばれた。
「お前が選んだ答えを、俺は尊重する。だが、もしもお前が、俺と同じ地平に立つことを選んでくれるなら、隣で使え」
一拍、薪が派手に爆ぜた。火の粉が二人の間で踊る。
「お前の手は、ただの臣下として王の足元に置くには惜しい。だから、俺の手のすぐ届く場所にあってほしいんだ」
ナナハルトの肺から、止めていた息が細く漏れた。指先の痺れが肘まで上がり、暖炉の熱が顔の皮膚を焼いているのに、寒気がした。
「……はい」
喉の奥が震えていた。
「僕で、よければ」
ソスヴァルド王が力強く頷いた。
「支えになってくれて、ありがとう」
王が手を差し出した。分厚く、硬い掌だった。だがそこから伝わる体温は、確かに温かかった。
握手が解かれた後、ソスヴァルド王の視線が部屋の隅に向いた。壁際に立つ、フードの少女へ。
「エリュシオンの管理者。もう一つ頼みがある」
エリが微かに顎を上げた。
「今後、この国に眠る設備を再起動する際には、君の立ち会いを求めたい。我々だけでは、あの装置の本来の仕様が分からない。君の知識が要る」
エリはしばらく黙っていた。暖炉の薪が小さく崩れる音だけが、石壁に吸い込まれた。
「……エーテル循環の推移を、間近で観測できる。拒否する理由はないわ」
平坦な声だった。だがその承諾の速さに、ナナハルトは少しだけ驚いた。エリにとっても、地上でエーテルがどう消費されていくかを測る機会は、必要なものだったのだろう。
「ありがたい」
ソスヴァルド王は短く頷き、ナナハルトへと向き直った。
「ナナハルト。ついて来い、お前の仲間に会わせる」
そして王の視線が、再び壁際のエリへと向けられる。
「管理者殿もどうだ。彼らが遺物をどう扱うか、実際に見ておくか」
「わたしはあなたの群体に加わるつもりはないわ」
エリは即座に答えた。
「ただ、ナナハルトの調律を観測するだけ。紹介は必要ない。ここでは、名もなき同行者として処理して」
「承知した。私の部下たちにも、余計な詮索はさせない」




