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白いスープと涙の理由

 エリに導かれて歩き出した通路は、落下地点のあの広い空間とは違う表情をしていた。


 天井が低い。

 両手を広げれば壁に届くほどの幅しかない通路の左右を、エーテル回路の青白い光脈が走っている。


 光は一定のリズムで明滅し、壁面に刻まれた細い溝を辿って頭上へ流れ、背後へと消えていく。歩くたびに靴底の反響が跳ね返ってくるのは先ほどの空間と同じだが、通路の狭さが音に輪郭を与えて、自分の足音の形がはっきりと分かった。


 前を歩くエリには足音がない。床に触れているはずの靴が反響を生まず、黒い衣装の裾だけが視界の先で揺れている。


 背後に気配があった。振り向かなかった。振り向けば猫耳の少年と目が合う。ルカはまだ此方を見ている。殺気はさきほどの膠着からいくらか温度を下げていたが、消えてはいない。監視する獣の気配は背中に薄い刃を当てられているのに似ていて、意識から外すことができなかった。


 通路を抜けた瞬間、空気が変わった。


 温かく湿っている。土ではない。けれど、植物の匂いだった。視界が開けると、水耕農園が広がっていた。


 透明な水路の上に棚が組まれ、根を水に浸した植物たちが何層にも重なって育っている。

 地上で見た畑とはまるで違った。


 葉は深い緑に沈み、茎は光を透かし、果実の表面にはエーテル回路に似た青い筋が浮いている。


 天蓋の暖色光を受けて、農園全体がゆっくりと呼吸しているように見えた。水が静かに流れている。


 その音が、都市の奥で鳴る低い振動とどこか似ている気がした。


 農園に隣接した空間から白い蒸気が立ち上っていた。蒸気の中に匂いが混じっている。


 根菜を煮込んだような甘さと、穀物を焼く香ばしさ。地上の母の台所で嗅いだ匂いとは成分が何もかも違うのに、この匂いが意味するものだけは同じだった。


 誰かが、食事を作っている。


 蒸気の向こうに白い影が揺れていた。人の形に見えた。だが足元が長すぎた。

 もう一歩近づいた時、それが蛇だと分かった。


 上半身は人間の女性だった。白い肌に、柔らかな白銀の髪を一つに束ねている。穏やかな目元は年齢が読めない。母と同世代にも、もっと若くも見えた。


 腰から下は白い蛇の胴体がゆるやかにうねり、調理台の周囲を巡っている。尾の先は背後の棚に軽く巻きつき、身体を支えていた。鱗の一枚一枚が部屋の明かりを拾い、真珠のような光沢を返している。


 角のある少女エリ。足音のない猫の少年。息をしない鴉の男。そしてこの、蛇の体を持つ女性。人ではないものばかりだ。


 だがナナハルトの口から出た言葉は恐怖ではなかった。


「……きれいだな、その鱗」


 考えて言った言葉ではなかった。鱗の光沢に目を奪われているあいだに、口が先に動いていた。


 この都市で出会った存在は、みな黒を基調としていた。

 その中で、この白はあまりにも鮮やかだった。


 白い蛇の女性がこちらを見た。大きな瞳の中に驚きとも可笑しさともつかない光が一瞬浮かび、すぐに柔らかな微笑みに溶けた。

 彼女は小さく首を傾げると、鍋を軽くかき混ぜた。蒸気の匂いが少しだけ甘くなる。


「ナナハルト君、お腹が空いている顔をしているわね」


 クイルの声が横から届いた。


「エリュシオンがあなたの名前を確定したため、全員に即時共有されました。ウーラもあなたの名を既に知っています」


 記録者は後方でエリの隣に立ち、こちらに目を向けないまま情報だけを提供した。

 エリが何かを認識すれば、それがこの都市のどこかに伝わるらしい。ウーラが初対面で名前を呼んだ理由は理解できた。


「さあ、座りなさいな」


 白い蛇の女性がそう言った。母が言うように自然だった。何も聞かなかった。どこから来たのかも、なぜ落ちてきたのかも、傷の理由も疲労の原因も。


 ただ温かい声で名前を呼び、席を示した。


 蛇の胴体が滑るように動き、調理台の上の器を尾の先で器用に引き寄せる。湯気の立つ椀がナナハルトの前に置かれた。隣に焼かれたばかりの平たい何かが添えられた。


 スープだった。透明に近い琥珀色の液体の中に、地上では見たことのない根菜が沈んでいる。


 白い断面に薄い紫の環が走り、表面には農園で見た植物の葉が散らされていた。立ち上る湯気には甘さがあった。


 蜂蜜のような粘りのある甘さではない。もっと軽く、もっと澄んだ、空気そのものに溶け込むような甘さだった。


 平たいものはパンだった。だが地上のパンとは何もかも違った。

 外殻は薄く硬い焼き色を持ち、割ると中から白い湯気と共に柔らかな生地が現れた。地上の粗挽き粉の、噛めば砂利を踏むようなあのパンとは別の食べ物だった。きめが細かく、指で押すと弾力が返ってくる。


 ウーラが三品目を置いた。

 果実だった。掌に収まる大きさで、表皮が淡く発光していた。

 半透明の果肉の内部にエーテルの残留光が封じ込められているのか、農園の天蓋光を受けると果実そのものが光源になったように見えた。


 最後に、水が注がれた。


 器に満ちた水は、色がなかった。色がないのではない。あまりにも澄んでいて、器の底に刻まれた青い回路文様がそのまま見えていた。ナナハルトが口をつけると、水は冷たすぎず温すぎない温度で喉を落ちていった。


 甘かった。砂糖の甘さではない。水そのものが持つ清浄さが、舌の上で甘みに変わるのだ。村の井戸水も、山の雪解け水も、どれも水は水の味しかしなかった。

 この水だけが違った。飲むと身体の内側が洗われるような感覚があって、極寒の山で消耗した器官の一つ一つに水が行き渡っていくのが分かった。


 スプーンを取り、スープを掬った。口に入れた瞬間、根菜の繊維が舌の上でほどけた。味が段階的に広がる。


 最初に来たのは出汁の深さで、次に根菜の甘みが追いかけ、最後に葉の微かな苦みが全体を引き締めた。地上でどんなに手をかけた料理でも、この多層的な味の構造には到達できない。素材そのものの質が違いすぎる。


 パンをちぎってスープに浸した。柔らかい生地がスープを吸い上げて、噛むと二つの味が同時に舌に広がった。旨かった。腹の底から温まる旨さだった。


 果実に歯を立てると、果肉の内部からかすかに光る汁が唇を伝った。甘酸っぱさが口を満たし、飲み込む前に香りが鼻に抜ける。

 この果物は地上に存在しない。この温度も、この光も、この味も、地上にはない。


 手が止まった。


 スプーンを握ったまま、ナナハルトは動けなくなった。


 固いパンの耳を千切って妹と半分にした朝を思い出した。水で薄めた粥を母が申し訳なさそうに出した夕を思い出した。干し肉の最後の一切れをリーゼルが「お兄ちゃんが食べなよ」と差し出してきた夜を思い出した。

 あの台所は寒かった。霜が窓の内側にも降りる冬の台所で、三人は一つの毛布を膝にかけて、冷めかけた粥をすすった。


 同時に一人で探索の旅に出かけたこの一週間の過酷さも思い出す。父が戦で亡くなり、生活の為に出発したのだ。父とは何度か探索の旅をしたことはあったが、一人は初めてだった。途中父に教わった野営の方法や獣の避け方、食料の確保の技術は役には立ったものの、ひたすらに孤独だった。父がいればもっと……。


 頬を何かが伝った。


 右手でスプーンを持ったまま、左手で頬に触れた。指先が濡れていた。泣いているのだと気づくまでに数秒かかった。


 目が熱いのは蒸気のせいだと思っていた。違った。自分の目から出た水だった。止め方が分からなかった。止めようともしなかった。身体が先に答えを出していて、意識はただその報告を受け取っただけだった。


 ウーラは何も言わなかった。


 涙を拭けとも、どうしたとも言わなかった。


 蛇の身体が滑らかに動き、鍋からもう一杯分のスープを椀に注ぎ、静かにナナハルトの前に置いた。それだけだった。

 この人は聞かない。なぜ泣いているのかを聞かない。聞かずに二杯目を出すのだ。


 その沈黙が、言葉よりも深く、ナナハルトの胸の奥に触れた。


 部屋の隅で、ルカが丸くなって横になっていた。眠っているように見えたが、片方の耳だけがナナハルトの方を向いている。


 少し離れた位置でエリが立っていた。食事はしていなかった。必要のない行為なのだろう。金色の瞳がナナハルトの食べる姿を見ていた。観測していた。


 天蓋から降り注ぐ農園の強い光を受けて、彼女の瞳の中で、ある変化が起きた。

 暗い落下地点では丸く大きく開いていた黒い瞳孔が、光に反応してスッと収縮したのだ。それは人間のそれのように円形に絞られるのではなく、真横に長い、四角い形へと平たく変化した。


 ナナハルトは思わずスプーンを止めた。その瞳を知っていた。地上の貧しい村で、家畜として飼われていた山羊や羊と同じ形だ。


 神秘的で、けれどどこか草食動物のような穏やかさと無機質さが同居する異質な目。彼女が人ではないことを、その瞳孔の形が何よりも雄弁に物語っていた。


 エリの瞳がそちらに向いたが、彼女は自分の瞳の変化に気づいたナナハルトの視線を意に介さず、ただ観測を続けた。


 都市の回路の光が、彼女の瞳孔の収縮と同じ間隔で、わずかに脈打った。


 ――偶然ではない。


 ナナハルトは、そう判断した。

ご一読いただきありがとうございます。 本日から連載を開始します。毎日19:30に更新予定ですので、物語の行く末を見守っていただければ幸いです。

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