碧眼の王
相変わらず、王城には華美な装飾はなかった。灰色の城壁が、分厚い雲に覆われた冬の空を背にしてそびえている。
王の直々の召喚とあってすんなりと城壁内へ入る。ここからは騎士の案内がついた。
城門をくぐると、空気が変わった。外の冷たい北風が遮断され、石の壁が蓄えた微かな暖気が肌に触れる。
以前訪問した時より温かい。松明の代わりに磨かれた金属の燭台が並び、黄色味を帯びた光が回廊の壁面を舐めていた。床には厚い織物が敷かれ、靴音が吸い込まれるように小さくなった。
ナナハルトは小さく息を吐き、右手の指先でコートの裾を無意識に握り締めた。
顔を向けたエリが、抑揚のない声で訊いた。
「あなたの音がいつもより硬い。心拍数が上がっているの。呼吸も浅い」
「まあ、そうだな、緊張しているってやつだ……正直、怖い」
ナナハルトの声が掠れた。前にこの城へ来た時は、一人だった。今は違う。隣に、この世界のどの人間とも異なる存在を連れている。
謁見の間は、ナナハルトが以前通された広間とは違っていた。
執務室と呼ぶべき、石壁に囲まれた四角い空間だった。大きな樫の机が一つ置かれ、暖炉に火が入り、薪が低く爆ぜている。窓は狭く、冬の陽光が細い帯になって床を横切っていた。壁面には北方の地図が数枚、赤い点を打たれた羊皮紙と共に貼られている。
部屋の奥で、ソスヴァルド王が地図の一つに目を落としていた。
ナナハルトが一歩前に出て、胸に拳を当てた。
「陛下。お召しにより、参上いたしました」
「ナナハルト」
王が名前を呼んだ。声が低く、近かった。
「よく来てくれた。……君の顔を見て思い出した。父上と同じ目をしているな」
ナナハルトの肩が一瞬だけ強張ったが、すぐに力を抜いた。
「父のことを覚えていてくださったのですか」
「前回はすぐには思い出せなくてすまなかったね。が、先代のアスターは優秀だったと聞いて、戦に同行してもらった……結果は残念だったが」
ナナハルトの父は探索者の活動を評価されて、戦に徴兵され、命を落としていた。
ソスヴァルド王は、同じ声で続けた。
「ナナハルト。お前が遺跡から持ち帰ってくれた品のおかげで、この城は随分と暖かくなった。気づいただろう」
回廊の燭台。床の織物。松明が金属の燭台に代わったのも、聖遺物の恩恵だったのか。ナナハルトの指先が、コートの裾を握り直した。
「だが、ここのところ届かなくなった」
声は穏やかだった。責めてはいない。だからこそ、逃げ場がなかった。
「遺跡で何かあったのか。お前の身に」
ナナハルトは口を開いた。用意していた嘘が喉元まで来ていた。道が崩れた、もう入れない。そう言えばいい。だが、言葉より先に、王の視線がナナハルトの肩越しに動いた。
ソスヴァルド王が、ナナハルトの背後にいるエリに視線を移す。エリの全身を一度だけ、ゆっくりと辿って、止まった。
王の呼吸が一拍だけ遅れるのを、ナナハルトは確かに感じ取った。足裏の重心がわずかに後方へ移動した。
「……ナナハルト。こちらの少女は」
声は平静だった。だが喉仏が一度だけ上下するのを、ナナハルトは見逃さなかった。
「エ……」
ナナハルトは言い淀んだ。エリ、という名前を出していいのか迷った。彼女の名前は、地下都市そのものを意味している。
「彼女は……僕の、同行者です」
ソスヴァルド王がエリに向き直った。一歩、エリに近づく。暖炉の炎が揺れ、王の影が壁に大きく広がった。
「君からは、人間の血の匂いがしないな」
エリは動かなかった。表情も変えなかった。金色の瞳が、王を真正面から見返していた。
「正確な観測ね」
エリが答えた。ソスヴァルド王の口元が、わずかに緩む。唇が閉じ直される前の、ほんの一瞬だった。
「そうか。では率直に訊こう。君は何者だ。ナナハルトが北方の遺跡から持ち帰る数々の品と、君の存在は、無関係ではないのだろう」
ナナハルトが口を開きかけた。遮るように、エリが一歩前に出た。
「わたしは管理者。エリュシオン。ナナハルトが訪れた場所の」
エリは深く被っていたケープのフードをふわりと落とした。顎の線で切り揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
暖炉の灯りが、露わになった横顔を舐めた。顎の下で結ばれた幅の広い帯状の布と花の飾りで角は隠されていたが、ナナハルトの指先がコートの裾をさらに強く握り込んだ。
「管理者」
「古い施設を維持管理する者。あなたたちの言葉で最も近いのは、そう呼ばれる役割」
ソスヴァルド王はしばらく間をおいてから、深く頷いた。
「なるほど。だから、あの出土品――我々が聖遺物と呼んでいるあれらの真の用途を、君は知っているのだな」
「すべての仕様を把握している。あれは単なる備品の一部」
「備品か」
ナナハルトは思わずソスヴァルド王の顔を見た。あれほどの報酬を出し、国の力として集めていた品を、目の前で備品と呼ばれたのだ。
だがソスヴァルド王の感情は見えなかった。
「では、我々はその備品を正しく使えていなかった、ということだな」
「正しくないわ」
エリが一歩前に出た。
「あの備品は末端の回路。あなたたちの強引な接続では、動力をうまく引き出せないどころか、過負荷が施設側に逆流する。今は外殻が焼き切れている状態で済んでいるけれど、これ以上の干渉は看過できない」
ソスヴァルド王は黙った。数秒の沈黙の後、深く息を吐いた。
「……つまり、我々の使い方が施設を傷つけていた、と。ならば、教えてくれないか。正しい使い方を」
王は机の上に広げられた地図を手で示した。赤い点がいくつも打たれている。飢饉や凍死者の発生地点だろうと、ナナハルトには想像がついた。
「この過酷な冬を越すため。民が凍えずに済むため。私は、我々の手にある遺物を完全に稼働させたい。君が管理者であるならば、施設の仕様を知っているのだろう?」
ソスヴァルド王がエリに向き直った。
「私たちに、協力してはくれないか」
王の声は揺れなかった。ただそこに立って、手のひらの赤い点を示しているだけだった。
エリは黙っていた。
エリの指先がわずかに動いていた。王の呼吸の間隔を計り、壁の地図の赤い点を追っている。
やがてエリは、ゆっくりと頷いた。
「条件がある」
「何だろうか」
「わたしは管理者として、致命的な損傷を避けるための修復手順……『正しい同期の合わせ方』だけを指示する。施設の維持に支障をきたす行為は絶対に認めない。それが守られる限りにおいて、協力するわ」
ソスヴァルド王は一瞬だけ目を見開き、それから深く頷いた。
「約束しよう。ヴィンターガルドの名にかけて」
王が右手を差し出した。
エリは、黒い手袋に包まれた手をゆっくりと持ち上げ、ソスヴァルド王の手に重ねる。
接触した瞬間、王のプラチナブロンドを走る青のメッシュが、暖炉の光とは違う鮮烈さを一瞬だけ帯びたように見えた。
暖炉の薪が一つ崩れ、橙色の光が二人の影を壁に投げかけた。




