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観測者と境界の獣

 鴉の男が静かに口を開いた。


「ナナハルト。あなたの音は記録に値します。エリュシオンの反応パターンに、在来のものとは異なる振動が確認されました」


 丁寧だが温かみのある声で事実を述べるようにそう言った。記録に値する、という表現が妙に耳に残った。敵でも味方でもなく、記録に値するかどうかがこの人の判断基準なのだ。


 鴉の装飾に覆われた左目が、ナナハルトの全身を一度だけ走査した。上から下へ、視線が紙面を読むように正確に移動する。


「記録を補足します。ヒト個体、推定十五歳。髪色は暗い亜麻色。瞳は灰色の基調に微量の緑色偏差が認められる。回路光の反射角によって偏差量が変動するため、環境依存の可能性あり」


 何を言われているのか一瞬分からなかった。だが、それが自分の外見を記録されているのだと理解した時、ナナハルトは妙な居心地の悪さを覚えた。


「手指の腹に弦楽器由来と推定される胼胝(たこ)を確認。右手親指の可動域が標準値を超過しており、反復的な演奏行動による後天的な筋腱の発達が示唆されます」


 鴉の男は記録を読み上げるように淡々と続けた。

 だがその正確さの裏に、対象物への透明な敬意のようなものがにじんでいた。壊さないように扱っている。標本を傷つけないように、言葉で輪郭だけを写し取っている。


 猫耳の少年の唸りはまだ低く続いていた。殺意は消えていないが、今すぐ殺すという質のものではなくなっている。不本意に猶予が生まれたのだ。

 ナナハルトの音が、少年の中の何かを一時的に塞き止めている。


「観測を続けましょう。この人間には、もう少し時間をかける価値がありそうです」


 長身の男がそう判断を下して猫耳の少年に視線を送ると、少年は唸りの音量を上げることで不服を表明したが体勢は崩さなかった。エリュシオンの名のもとに下された判断には、彼も逆らえないのだ。


 ナナハルトは手を止めた。カリンバの最後の一音が壁に反射して遠ざかり、やがて都市の環境音に溶けて消えた。

 心臓はまだ速く打っていたが、指の震えは止まっていた。


「私の名前はクイル。彼はルカです」


 お見知り置きを、と鴉の男クイルは記録を閉じるような手つきで、鴉が翼を畳むように穏やかに礼をした。


「勝手に決めるなよ、クイル。エリュシオンが止めろって言わなきゃ、あの指ごと潰してたぞ」


 猫耳の少年ルカが低く吐き捨てた。尻尾の先だけが苛立たしげに床を叩いている。


「ええ。ですが止めなかった。それが観測結果です」


 クイルは鴉の装飾に覆われた左目をルカに向けたまま、淡々と応じた。あの温もりのある声がルカに向く時だけ、わずかに事務的な硬さを帯びる。


「あなたの足音は、都市に似ているの」


「僕の足音が?」


 角のある少女がそう言った。視線はナナハルトの足元に落ちていて、靴底と床の間に生まれる振動の何かを聴いているようだった。


 意味はよく分からなかった。

 だが嘘は言っていないとだけは分かった。少女がこれまでに口にした言葉はすべて、ただ正確に観測したことの報告だった。都市に似ていると言ったなら、本当に似ているのだろう。


「そう。エリは、気に入ったわ」


 エリだった。角のある少女ではなく、エリ。


 ナナハルトの中で、その名前がようやく落ち着く場所を見つけた。


 ナナハルトは答えの代わりにもう一度だけカリンバの鍵に触れた。

 今度は音を出さなかった。

 金属の冷たさだけが親指の腹に残り、その感触が全身の強張りをわずかに溶かした。


「はっ? エリ……だって。そう名乗ったのかよ? エリュシオンが」


 再び、ルカから一瞬の殺気。だがそれは一瞬で、ただ驚いたという響きだった。


 殺されなかった。


 少なくとも、今は。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

次回からはいよいよ、美しき地下都市での楽しい生活と、古代技術との出会いが始まります。


「地下都市の景色が見てみたい」「二人の関係が気になる」と思っていただけましたら、

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執筆の最大のモチベーションになります!


次回は明日のお昼頃に更新予定です。

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