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収穫祭へ

 エリはナナハルトに「収穫祭に行こう」と誘われた。

 収穫祭。秋の収穫を終えた村が、冬を前に一夜だけ蓄えを開く行事だ。


「去年の収穫祭の次の日に村を出たんだった。……エリと出会ってもう一年だな」

 ナナハルトが独り言のように呟いた。

 エリは横を歩く彼を見た。地下で初めて会った時より、見上げる角度がわずかに上がっている。肩幅も、少しだけ広い。


 エリがナナハルトとゲルダの家を出て、村の中心にある広場へ続く緩やかな石畳を下る間、夜気はすでに焚き火の煙と発酵した麦の匂いで重くなっていた。


 収穫を終えたばかりの土と麦の匂いがする。道の両脇には、麻袋に詰められた穀物が無造作に、だが確かな重量を持って積み上げられている。

 その隙間を縫うように並べられた真新しい木樽からは、酵母が麦を分解する過程で生じる、発酵特有の微かな熱と酸味が漏れ出していた。


 通り過ぎていく村人たちは声が大きかった。大人も子どもも早足で、手に木のジョッキや焼き菓子を持っている者が多かった。


 広場の方角から、無数の篝火が作り出す橙色の光が低い雲を染めていた。弦楽器の粗雑な旋律と歓声が、石畳を伝って足の裏から押し寄せてくる。


 その光と音の中へ足を踏み入れた瞬間、エリの歩みが止まった。


 半歩だけ、遅れた。


 旅の野営とは異なる、大きな篝火があった。

 広場の四隅に据えられた鉄籠の中で薪が爆ぜ、不規則な橙の光が石畳を舐めるように這い回っている。その炎は一定の波長を持たなかった。風が吹くたびに傾き、縮み、また膨らむ。その度に影が伸び、周囲の人間たちの顔や手や衣服の上を、別の生き物のように動いた。


 光源が安定しない。


 エリュシオンの擬似空は常に均一な照度を保っていた。

 光の角度、色温度、拡散率。すべてがシステムによって最適化され、影は予測可能な位置に、予測可能な濃度で落ちる。毎秒ごとに座標が変わり、照射範囲が揺らぎ、観測データが上書きされ続ける。

 野営の焚き火で慣れたつもりだったが、いま目の前にあって積み上げられているものは、大きさも、輝き方も、熱も違っていた。


 その処理に追われている間に、匂いが割り込んだ。


 焼きりんごの、甘く焦げた匂い。蜂蜜酒の酵母が発する、粘度のある酸味。篝火の煤が混じった煙。そして、人間たちの体温が作り出す、外気より数度高い空気の層。それらが同時に、風向きの変化ごとに濃度を変えながら、鼻腔から侵入してきた。


 聴覚も同様だった。弦楽器の旋律と子どもの歓声と木のジョッキが打ち合う音と火が弾ける音が、距離も方向も失った一塊の音圧になって、広場全体から押し寄せてきた。


 エリの足が止まった。


 処理が追いつかなくなっていた。光と音と匂いが同時に更新され続け、観測の優先順位が決まらない。冷却のための吸気が浅く速くなっていた。


 ナナハルトが一歩先で振り返った。


「大丈夫か」


 声は低く、短かった。エリの足が止まっていることに気づいて、振り返って、確認してきた。そのナナハルト動作に、エリは正常を取り戻した。


 エリは一拍置いてから答えた。


「……処理が、少し」


「多いか」


「多い」


 ナナハルトは頷いた。それ以上は訊かなかった。ただ少しだけ歩く速度を落として、エリの半歩前を歩き続けた。群衆の中で道を作るように、自然に。


 リーゼルはすでに広場の奥に走り込んでいた。友人たちの輪に飛び込み、手を振り回しながら何かを叫んでいる。

 その声は他の音に紛れて、ここまでは届かなかった。



 焼きりんごの甘い匂いに誘われていると、屋台に辿り着いた。鉄板の上に薪を組んだ簡素な焼き場で、りんごは丸ごと串に刺され、蜂蜜を塗られ、炭火の上でゆっくりと回されていた。皮が焦げて縮む音がした。果汁が滴って炭に落ち、甘い蒸気が立ち昇った。


 ナナハルトがその一つを受け取り、小刀で一切れを削いだ。


「食べてみろ」


 エリは差し出された一切れを見た。断面から薄い湯気が立っている。表面は焦げて濃い褐色、内側は淡い黄金色で、繊維の間から半透明の果汁が滲んでいた。


「成分の観測として」


「いや、食え。観測は後でいいよ」


 エリは一切れを指先で受け取り、口に入れた。


 舌の上で、熱と甘さと苦味が同時に弾けた。焦げた皮の香ばしさの奥を、蜂蜜の粘りが追いかけていく。最後に、酸味だけが舌の根に残った。


「……甘い。苦い。酸い。全部、同時に」


「そうだ」


 ナナハルトが自分の分を齧りながら言った。

 二口目を、自分から食べた。ナナハルトがエリの袖を引いた。


「見せたいものがあるんだ」

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