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理由のない好き

 午後、軒下の板張りで、エリとリーゼルは二人でいた。


 ナナハルトは村の端の屋根を直しに行ったきり、まだ戻ってこない。


 リーゼルがずっと話していた。隣村の祭りのこと、飼っている鶏の名前のこと、もうすぐ生まれる仔羊のこと。エリはそれを聴いていた。話の半分は文脈の繋がりが論理的でなかったが、繋がらない部分にリーゼルの好きなものが詰まっていることは分かった。


「ねえ、エリ」


「なに」


「兄ちゃんのこと好き?」


 エリの視線が、板張りの木目をなぞった。


「……『好意』というパラメーターは、わたしには実装されていないわ。わたしが彼を継続観測している理由は、彼が特異な外部要因だから」


「ふーん」


 リーゼルは特に驚かなかった。板張りから足をぶらぶらさせて、鶏小屋の方を見た。


「よくわかんないけど」


「……何が」


「理由とかないんだよね、好きって」


 エリは、答えなかった。


 答えられなかった。


 理由のない行動。エリュシオンには存在しないカテゴリだった。都市のすべての機能には、設計意図がある。ウーラが食材を管理するのは住民の生命維持のため。クレーナが修復を行うのは構造を保全するため。ルカが防衛するのは境界線を守るため。クイルが記録するのは歴史を継承するため。エリが存在するのは、都市が都市であり続けるため。


 『理由がない』は、エリの辞書には存在しない記述だった。

 その言葉が、止まった。エリの中のどこかで、引っかかったまま動かなかった。反論の語彙が生成されなかった。


 リーゼルは黙ったままのエリの隣で、足をぶらぶらさせ続けた。


「兄ちゃん、エリのことずっと話してたよ。会ってないときも。なんか嬉しそうだった」


「……そう」


「嬉しそうな顔って分かる? エリ」


 エリは壁の向こうで、時計が三つ分の拍を刻むのを聴きながら考えた。


「ナナハルトの声は、何かを分析するときに高くなる。構造に夢中になっているときは、独り言が増える。あれが――そういう状態なの?」


「たぶんね」


 リーゼルは笑った。人間が笑うとき、肺が短く空気を吐く。その音は小さくて、不規則で、反響しない。エリの横に座ったリーゼルの笑い声が、縁側の板を通じて、微かに振動を伝えてきた。


 ナナハルトが笑うときも、こういう振動がある。


 エリはそのことに、初めて気がついた。


 同じ系列の振動だった。同じ家の中で育った身体が持つ、共鳴の仕方。骨格が似ていれば、笑うときに伝わる振動も似る。それは合理的な観測だった。


 だがその振動が、エリの手のひらの下に――板張りを通じて届いてくることが、なぜか処理の速度を遅らせた。


 合理的な説明ができた。だがその説明が、何かを説明しきれていなかった。


 夕暮れに、ナナハルトが戻ってきた。


 リーゼルが真っ先に玄関に走った。ドタバタという大きな足音が廊下を通って、ナナハルトの名前を呼んだ。


 エリは、その足音を聴いていた。


 リーゼルの足音と、ナナハルトの足音が、玄関で重なった。二つの声が重なって、一緒に笑った。

 工房の方からゲルダが「手洗ってきな! もうすぐだよ!」と大きな声を出した。鼻歌の続きが、声の後に漏れてきた。


 エリは、その光景を見ていなかった。音だけで把握していた。


 人間が三人、同じ小屋の中にいる。同じ血を持つ三人が、それぞれの声と重さで空間を満たしていく。都市の一定リズムの振動とは違う、不規則で、ばらばらで、時に重なる音。壁の時計たちが刻み続けるチクタクの上に、足音と笑い声と鼻歌が重なって、この家の中だけの音楽を作っていた。


 ウーラは家族のようなものだとエリは思っていた。管理者の中で、最も世話をする機能を持つ存在として。だが今、工房から早足でやってきたゲルダの「さっさと座りな、冷めちまうよ!」という歯切れのよい指示がウーラとは何かが違うことを、エリは感じ取っていた。


 ウーラは都市のために食を管理する。


 この家の母親は、三人のために台所に立っている。


 その差が、何かを意味しているのだということは分かった。だがエリの視線は、台所の入口にしばらく張り付いたまま動かなかった。


 ナナハルトが廊下を歩いてくる足音がした。縁側の引き戸が開いた。


「エリ、先に一人にして悪かった」


 ナナハルトの服の袖に、木屑がついていた。髪にも、かすかに土の匂いが混じっている。屋根の修繕をしてきた身体が、夕暮れの空気ごとこの廊下に入ってきた。


「いいえ。リーゼルがいたから」


「なんか話してた?」


 鶏小屋の方で、鶏が一羽、低く鳴いた。


「いろいろ」


 エリは板張りから立ち上がった。ナナハルトの顔を見た。掌に木屑の擦過痕が残り、額にうっすら汗の痕跡がある。だが声帯の振動は安定していた。疲労は蓄積しているが、損傷はない。


「ナナハルト」


「うん」


「あなたの瞳の色、リーゼルと同じね。光の屈折率が、わずかに違う。でも同じ系列のデータだわ」


 ナナハルトの靴先が、板張りを一度だけ鳴らした。


「……それが?」


「落ち着く」


 エリは言った。短く言って、それ以上は言わなかった。その言葉を否定する語彙が、生成されなかった。


 ナナハルトはまた少し黙った後、笑った。板張りが、微かに振動した。さっき、リーゼルから伝わってきたのと同じ系列の振動だった。


「……何それ」


 夕日が、ナナハルトの髪を赤く染めていた。


「正確な観測よ」


「そうかな」


「そう」


 夕日が室内に差し込んでいた。台所から夕食の匂いが漂ってきた。リーゼルの声が遠くで「もうすぐ食べれる?」とゲルダに訊いていた。ゲルダの「もうちょい待ちな!」という声と、また始まった鼻歌が、壁越しに届いた。


 エリは、その匂いを処理した。

 エリュシオンの食事も、クレーナの工房の匂いも、ウーラが管理する清浄な空気の匂いも、知っている。だがこれは別の匂いだった。

 竈の火の匂い。鶏の出汁の匂い。パンが冷めていく匂い。機械油がかすかに混じった、四人分の夕食の匂い。


 ただ、処理の速度が落ちなかった。落ちないどころか、少しだけ速くなった。


 壁の時計たちが、相変わらず不揃いなリズムを刻んでいた。その音の中に、ナナハルトが育った時間の全部が詰まっているのだと、エリは観察を記録した。

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