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ナナハルトのお母さん

 誰かが鼻歌を歌っている。旋律は単純で、おそらく地上の農作業歌の変形だと推定される。音程はおおむね正確で、ごくわずかに低い方へ揺れる癖がある。声の主は、その揺れをまったく気にしていない。楽しげな呼吸の音が、旋律の隙間に混じっていた。


 エリは歌の聞こえた台所の入口に立った。


 小柄な女性が、背中を向けている。


 ナナハルトの母、ゲルダは、エリが予測していた像とは違っていた。痩せてはいるが萎んではいない。むしろ枝のように硬い芯がそこに通っていて、身体の動きに淀みがなかった。鍋の蓋を片手で持ち上げ、もう片方の手で棚から香辛料の瓶を取りながら、踵で足元の薪を蹴って位置を直す。三つの動作が同時に、正確に走った。

 髪はナナハルトと同じ暗めの亜麻色で、耳の後ろで無造作に束ねられている。


 女性が振り返った。


 灰緑色の瞳がエリを捉えた。鍋の蓋を持ったまま、視線だけがエリの爪先から頭の先までを一瞬で舐め、すぐに薪へと戻った。


「おはよう、エリちゃん。ちゃんと眠れたかい?」


 声に、昨夜の遠慮がなかった。一晩で距離の測定が終わったらしい。


「はい。ありがとうございます、ゲルダ、さん」


「あはは、硬い硬い! ナナと同じでいいよ、ゲルダ母ちゃんでさ。まあ、あんたがうちの嫁さんにでもなるなら『お義母さん』だろうけど、そっちはまだ早いかい?」


 エリの口が開きかけた。だが音が出なかった。首の角度がそのまま固定されている。


「あー、冗談だよ冗談。フリーズしちまって、可愛いねえ」


 ゲルダは片手を振って笑った。鍋の中身をかき混ぜながら、鼻歌の続きを歌い始めた。エリの反応を待つことなく、両手が次の作業に移っている。


「ナナハルトはもう出たよ。隣のじいさんの屋根板がまた飛んだってさ。あの子はああ見えてなんでも直すからね」


 エリはゲルダの手を見ていた。


 指先が小さかった。だが動きに迷いがない。鍋の柄を握る角度、香辛料を振る手首の返し、蓋を閉めるときの力加減。すべてに繰り返しの記憶が染み付いていた。

 爪の間に、かすかに黒い染みがある。機械油だ。工房と台所を行き来しているから、手にはどちらの匂いも重なっている。


 クレーナの手に似ている、とエリは思った。


 工房の梟が、ナナハルトの手を観察した時の記憶が呼び出された。「手は悪くない。だが何も知らない」。クレーナの手は黒く染まった爪を持ち、無言で道具を握り、結果だけを出力する手だった。

 この母親の手もそうだった。言葉より先に手が動く。結果が先にあって、説明は後からくる。あるいは来ない。


 エリはその共通構造を記録した。分類の名前はまだなかった。


 午前中のうちに、ゲルダは工房へ移った。エリは後を追った。


 小さな部屋だった。壁の時計たちが不揃いな拍子を刻み続けている。作業台の上に、分解途中の手巻き式時計が一つ。ゲルダが手帳大の拡大鏡を目に当て、細いピンセットで歯車の噛み合わせを調整している。


「へえ、興味あるのかい」


「この振動源は何ですか」


「時計だよ。ゼンマイを巻くと、歯車が回って針が動く。村じゃうちくらいしか直せないから、方々から持ち込まれるんだ」


 エリは作業台に近づいた。ゲルダの手元で、直径二ミリに満たない歯車が噛み合い、回転を伝達している。一つの回転が次の回転を生み、その連鎖が最終的に針の動きになる。


「時間を……計測しているのですか」


「そうだよ。朝が来て、昼が過ぎて、夜になる。それを針で追いかけてるだけさ」


 追いかけている。都市にはない概念だった。エリュシオンの時間は循環する。昼が来れば夜が来て、夜が来れば昼が来る。終わりは設計されていない。

 だがこの小さな機械は、終わりがあることを前提に作られている。ゼンマイのトルクは巻くたびに減衰し、歯車の噛み合わせは摩擦で削れていく。いつか止まる。それを知っている人間が、それでも毎朝巻いている。


 ゲルダが鼻歌を歌いながらピンセットを動かしている。止まった時計をもう一度動かすために。

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