お忍びの旅
宿場の外れで、ナナハルトは馬車を一台借りた。
ソスヴァルド王から下された金貨や銀貨はまだ残っていた。エリの服に多くを費やしたが、この程度の出費を惜しむつもりはなかった。老いた栗毛の馬と、幌のついた小さな二輪の荷馬車。御者台にナナハルトが座り、幌の下にエリが収まった。
馬借の主人は、フードを目深に被った黒髪の少女を一瞥して、何も聞かなかった。金貨が口を塞いだ。わけありの令嬢がお忍びで旅をする。よくある話だと思ったのだろう。
昼下がりの柔らかな光の中、北へ向かう街道を進んだ。
ナナハルトは手綱を握りながら、時折振り返った。幌の隙間から、エリが外を見ている。フードの影の中で、流れていく景色を黙って追っていた。畑の区画。石積みの柵。道端の祠。荷を積んだ驢馬とすれ違うたびに、エリの視線がそちらへ向く。だが何も言わなかった。ただ、見ていた。
馬車が揺れる中、昼にウーラが持たせてくれた包みを開けた。
水耕農園の食材を使った料理は、冷めてもまだ仄かに香りが残っていた。ナナハルトは果実のシロップ漬けをエリに差し出した。ウーラの言いつけ通りに。
エリはひと口だけ含んで、しばらく黙った。
「……甘い。この入力の分類が、わからない」
「美味いってことだよ」
「美味い。そう」
夕刻、街道を外れて林の中に馬車を入れた。
探索者にとって野営の支度は慣れた手順だった。焚き火を組み、馬に水を飲ませ、幌の中に毛布を敷く。
焚き火の向こうで、エリが空を見上げていた。
昼間の灰色とは違う、黒い空だった。雲の切れ間に、光る点がいくつも見えた。
―
翌日の昼過ぎ。
見覚えのある丘を越えたとき、ナナハルトは手綱を引いて馬を止めた。
丘の向こうに、煙が見えた。竈の煙が三本、まっすぐ立ち昇っている。木と石と藁で組まれた粗末な屋根。石を積んだ低い壁。薪の山。井戸のある広場。凍った泥の道に家畜の蹄の跡が重なった、冬の終わりの村――ナナハルトの村だった。
風が止んでいた。
煙がまっすぐに昇る村の上に、灰色の空が広がっている。終わりのない空。エリがその空の下で初めて歩く世界。エリュシオンの天蓋が模倣していたものの原型が、頭の上にある。六千度の恒星が薄い雲の向こうに隠れていて、それでもなお届く光が、冬の終わりの大地を照らしている。
ナナハルトはエリの隣を歩いた。
太陽は見えない。空は灰色だ。風は冷たい。世界は不完全で、不規則で、設計されていない。
だがエリの足は止まらなかった。
泥を踏む音が二つ分、春の道に刻まれていく。一つは慣れた足音。もう一つは、二日前にこの世界を初めて踏んだ足の、まだ少し不器用な音。
フードの影から、エリはまだ空を見上げていた。
終わりのない空を、観測し続けていた。




