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草と土、不均一な一歩

 石畳と草の境界で、片足を上げたまま止まっている。視線が足元の草に落ちていた。


「一定じゃないの。地面が」


「土だからな」


「数センチの凹凸が不規則に分布している。圧力に対する抵抗値が場所ごとに異なる。歩行時のバランス補正が――」


「エリ」


 ナナハルトが名前を呼んだ。手を差し出した。


「計算しなくていい。足が覚える」


 エリが、ナナハルトの手を取った。


 一歩を踏み出した。靴底が草を踏み、土が数センチ沈んだ。エリュシオンの完全に平坦な白い床とは何もかもが違う。柔らかくて、湿っていて、不均一で、靴底を通じて冷たい温度が伝わってくる。


 エリの口が薄く開いた。何か言いかけて、言えなかった。データの語彙では処理できない入力が、足の裏から全身を駆け上がっていた。


 二歩目。三歩目。ナナハルトが先に歩き、エリがその半歩後ろをついていく。石畳を離れ、草の上を進み、遺跡の柱の残骸を抜けて、小さな丘の斜面に差し掛かった。


 丘の頂に立った。


 世界が広がった。


 眼下に、ヴィンターガルドの北方が横たわっている。雪が残る丘陵の波。まだ芽吹いていない裸木の林が灰色の線を引き、その合間に畑の区画が茶褐色のモザイクを描いている。遠くに煙が三本、四本。竈の煙だった。村がある。人が住んでいる。家畜の声は聞こえないが、風が吹けば届くかもしれない距離に、生きた人間の暮らしがある。


 ナナハルトは見慣れた景色を見ていた。


 エリは、初めての景色を観測していた。


 ナナハルトはエリの横顔を見た。黒い髪が風に流され、帯状の布の端がまた浮き上がり、青い花の飾りが微かに揺れた。 エリの視線が、世界の端までを追うようにゆっくりと左右に動いている。


 何かが処理されていた。エリの唇の動きは、何度か言葉を形成しかけては消えていっているように見えた。それを言い表す語彙を、彼女はまだ持っていなかった。


 ナナハルトは何も言わなかった。言う必要がなかった。隣に立って、同じ風を受けているだけでよかった。


 二人は丘を降りた。


 道があった。轍が二本、泥の中に深く刻まれた細い道。王都から北の村々へ向かう荷馬車の跡だった。ナナハルトが何十回と歩いた道だ。


「こっちだ」


 エリが頷いた。歩き始めた。


 最初の数十歩は慎重だった。草と泥の不均一な地面を一歩ずつ確認するように踏み、バランスが崩れるたびに微かに体勢を直していた。だが百歩を数える頃には、靴底が泥を踏む音が規則的になり始めた。身体が先に覚え始めている。


 エリの視線が前方だけでなく、左右に広がり始めた。


 道端に転がっている石を見つめた。丸い石だった。川が削った、不均一な楕円形の石。エリュシオンの壁面を構成する石は、すべて精密に切り出された正六面体か、演算された曲面を持つ構造材だった。この石にはそれがない。設計がない。理由もなく丸い。


 エリの足が止まりかけた。だがすぐに歩き出した。止まらなかった。ただ首だけが、少しだけ長く後ろに残って、その石を見送っていた。


 ナナハルトは黙って歩いた。


 水溜まりがあった。轍の窪みに朝の雪解け水が溜まったものだ。泥と落ち葉で濁っていて、ナナハルトなら避けて通る水溜まりだった。だがエリが立ち止まった。


 水面を覗き込んでいた。


 濁った水の表面に、灰色の空が映っている。変形した雲が、楕円形の水溜まりの中で、さらに歪んで反射していた。風が水面を揺らすたびに像が崩れ、風が止むと元に戻る。その繰り返し。


「……不定形の表面に投影された光源の反射。規則性が確認できない」


 報告の声だった。けれど足は動かなかった。水溜まりの前にしゃがみ込んで、濁った水の中に映る歪んだ空を、じっと見ていた。


 ナナハルトが声をかけた。水溜まりの前にしゃがんだエリの横に立って、手を差し出した。


「先を急ごう。日が暮れると寒くなる」


 エリが顔を上げた。水溜まりから視線を引き剥がすのに、一瞬だけ間があった。


「うん」


 立ち上がった。泥が靴底に付いて、一歩踏み出すたびに小さな音を立てた。


 空気の温度が落ちた。南からの暖気が引き、北の冷えが降りてきた。ヴィンターガルドの北方特有の、冬の抵抗のような冷気だった。エリの身体がかすかに強張った。ケープの内側で循環の法が明滅するのが見える。


「温度が下降した。二度。外気温がさらに低下する場合、エーテル循環の出力調整が必要になる」


「そんなに寒いか?」


「寒い、という分類が該当するのか、照合するデータがないの。体表面の温度差が、都市での基準値と乖離している。この差分をどう処理すればいいか、わたしのログに参考値がない」


「寒いんだよ。それは」


「……そう」


 エリが自分の二の腕を片手で掴んだ。寒がる仕草だった。本人は気づいていないだろうが、人間がやるそれと同じ動きだった。


 ナナハルトは笑いかけた。だが笑わなかった。笑ったら、エリがその動作をやめてしまう気がしたからだ。


 道が下りに変わり、林を抜けると、視界が開けた。


 丘の向こうに、石壁に囲まれた小さな宿場が見えた。街道沿いの、王都への荷を中継する集落だ。荷馬車が数台、道の脇に停まっている。ナナハルトには見覚えがあった。王都への往復で何度か立ち寄った場所だ。


「エリ、フードを」


 エリが顔を上げた。ナナハルトの視線が宿場を指している。理解したのだろう。エリの手がケープのフードに触れ、ゆっくりと頭に被せた。黒い髪が布の中に収まり、帯状の布と青い花の飾りがフードの影に隠れた。 フードの影の奥で、まだ光が零れていた。


 さっきまで剥き出しのまま世界を浴びていた少女の顔が、一枚の布の影に沈んだ。ナナハルトの視線が、そこに一瞬だけ長く留まった。

 「深く被って。瞳が目立つ」


 エリがフードの縁を引き下げた。金の光が、影の中に沈んだ。


「角は大丈夫か?」


「0・2パーセントを維持している。この出力なら、布の下の突起としか認識されない」


「よし。ここから先は人がいる。僕のそばを離れるな」


「うん」

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