六千度の恒星
南側の丘から吹き抜ける春の風が、二人の間を通り過ぎていく。ナナハルトの髪が額から浮き、慣れた冷たさが首筋を撫でた。
だがエリの身体が一歩分、後ろに傾いだ。
頭に巻いた装飾布の端がふわりと持ち上がり、青い花の飾りが、衣擦れのような柔らかな音を立てた。その音は壁に反響しなかった。柱にも跳ね返らなかった。丘の上へ流れて、春の大気に呑まれて消えた。
「風の……圧力が、不規則すぎる」
声が変わっていた。管理者の調子ではない。処理の淵に立たされた存在が、かろうじて吐き出した観測報告だった。
「周期が読めない。入力パターンが確立できないわ」
「風はそういうもんだよ。吹いて、止んで、また吹く」
ナナハルトは何でもないことのように言った。実際、何でもないことだった。
エリの視線がゆっくりと上へ滑った。
ナナハルトはそれを見ていた。視線が足元を離れ、柱の頂を越え、広場の端の大木の梢を越え、丘の稜線を越え、その先にある何もない空間に吸い込まれていくのを。
空だった。
灰色の空。薄い雲の隙間から白い光が降り注いでいる。早春のヴィンターガルドの空は青くない。大気が灰白色に染まり、太陽は雲の向こうで光芒を滲ませている。
瞳孔がさらに収縮していた。横長の長方形がほとんど線に近くなっている。光に灼かれるように細くなり、それでもまだ足りないというように何度も微調整を繰り返している。
身体がふらついた。ナナハルトが支えた。エリの背中に手を回して、倒れないように。
「……どこまでも、続いている」
声が震えていた。だがエリは視線を下ろさなかった。支えられたまま、空を見上げ続けていた。
「天蓋が不明。端が、どこにもない」
報告の語彙だった。けれどナナハルトの腕の中で、エリの身体が微かに振動していた。言葉だけでは汲み切れない何かが滲んでいる。ケープの内側で、クレーナが縫い込んだ循環の法が淡い光を帯びた。体温調節が追いついていない。
胸元の黒い装置が、低く鳴った。
鴉の嘴を模したブローチ。クイルが授けた記録器。その奥から、遠くて近い声が響いた。
「エリュシオン」
クイルの声だった。地下の深い静寂の中から回線を通じて届く、あの低く穏やかな声。
「それは『太陽』です。表面温度およそ六千度。この星の主恒星であり、エリュシオンの天蓋が模倣していた光源の原型です」
エリの瞳の振動が、わずかに減速した。
「ログとの照合を推奨します。マトリクスのアーカイブに、地上観測データが六十七件残存しています。あなたの前任者が記録したものです。参照してください」
沈黙があった。
「あなたは壊れてはいません。入力過多による一時的な演算遅延です。深呼吸は不要ですが、出力を二秒間だけ落としてください」
エリの指の力が、少しだけ緩んだ。
深呼吸をした。クイルが不要だと言ったそれを、エリはした。ナナハルトの腕の中で、小さな胸が一度だけ大きく膨らんで、冷たい春の空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
それでもまだ、空を見ていた。
「……終わりが、ない」
長い沈黙の後に、エリが言った。
「でも、理由はあるのね。六千度の、恒星」
ただ、指の痛みが引いていた。隣の身体の震えが止まっていた。それだけが確かだった。
「行けるか」
「……うん」
また、あの「うん」だった。管理者の声ではない、少女の声。ナナハルトはその声が好きだった。
遺跡の石畳の先に、草があった。春の初めに地面を覆う、短くまばらな草。枯れ草の間からようやく緑が顔を出したばかりの、弱々しい若草。ナナハルトは何も考えずにその上に足を踏み出した。靴底が数センチ沈む。湿った土が靴の重みで小さな音を立てた。




