本物の空
薄い雲が高い位置を流れ、隙間から早春の陽光が差し込んでいる。
苔むした石畳の上に不規則な陽だまりが散り、崩れた柱の残骸が白く照らされていた。
ナナハルトは足元の石を踏みしめて、肺の奥まで空気を吸った。冷たい。だが鼻腔の奥に、雪解け水と腐葉土の混じった湿り気が届いた。冬の底を抜けた匂いだ。吐く息はまだ白いが、陽の当たる肩口がほのかに温かい。
ヴィンターガルドの北方で、いい天気と呼べるのは、こういう日のことだった。
悪くない。
靴底が石畳を鳴らした。音は壁に反響せず、壊れた柱をすり抜け、そのまま灰色の空に吸い込まれて散っていく。
地上では音が帰ってこない。何度地下と地上を行き来しても、この感覚だけは毎回新鮮だった。エリュシオンの壁が返してくれる反響がない世界。空間の輪郭を音で確かめる癖が、ここでは使えない。
だが身体はすぐに切り替わる。探索者にとって、野外は元々の仕事場だ。
ナナハルトは周囲を見回した。
見覚えのない場所だった。
苔に覆われた列柱の残骸が半円を描くように地面から突き出し、足元の石畳は六角形のタイルが精密に嵌め合わされた古い意匠を残している。瓦礫と砂利に埋もれた石切場の狭い裂け目、いつも身体を横にして這い上がるあの崩壊した換気口の穴とは、まるで違う場所だった。
正規の出入口。途方もなく長い眠りから覚めたばかりの大深度昇降機が吐き出した先は、忘れ去られた遺跡の広場だった。
南側に丘陵。北西に裸木の林。東に、少し高い地形。雲越しの太陽の位置から方角は読める。だが、ヴィンターガルドのどの辺りに立っているのかが分からなかった。
目が、一本の木を捉えた。
広場の東端に立つ広葉樹。周囲の石畳を根で押し破るほど育ち、北から何百年も吹きつけた風に押されてぐにゃりと幹を南に巻くように曲げながら、それでも高く、広く枝を広げている。葉はない。だがその分だけ、梢の隙間から遠くが見渡せるはずだった。
エリの方を振り返った。
エリは、動いていなかった。
昇降機から降りたままの位置で、灰緑のケープの裾が風に揺れている。
ナナハルトが手を引いて石の扉をくぐらせた、その場所から一歩も動けないでいた。
目が見開かれていた。金を溶かしたような虹彩の中で、瞳孔が横長の長方形のまま微かに振動している。暗所で丸く開いていた山羊の瞳孔が、太陽光に灼かれるように細く収縮し、それでもまだ絞り足りないというように微調整を繰り返していた。
空を見上げていた。天蓋がない。境界がない。端も見えない。
「エリ。ちょっとだけ待ってて。すぐ戻る」
返事はなかった。だが逃げ出す気配もなかった。ナナハルトはエリの肩を一度だけ軽く叩いてから、広場の端へ走った。
ぐにゃりと曲がった大木の幹に手をかけた。樹皮が冷たく、指に苔の湿った感触が残る。枝股に足を引っかけて身体を引き上げ、三つ目の分岐に腰を据えた。裸の梢が視界を幾筋かに裂くが、その隙間から見えたものに息を呑んだ。
南東。丘陵を三つほど隔てた先に、石壁の輪郭が横たわっていた。
灰色の城壁。その内側から竈の煙が何本も立ち上り、屋根の連なりが春の霞の中に浮かんでいる。見間違えるはずがなかった。
王都ノルデンシュテルンだった。
いつも使っている石切場の出入り口からなら、山を一つ迂回して谷を越え、丸一日の行程を要する。だがここからは丘を三つ越えるだけだ。荷馬車の轍が走る道も見える。歩いて数刻で着くだろう。
枝から飛び降りた。湿った草が靴底に張りつく。斜面を駆け下りて、まだ動かないエリの前に戻った。
「エリ、ここ、王都のすぐ近くだ」
息が弾んでいた。走ったせいだけではない。
「いつもの石切場からだと丸一日かかるのに、ここからなら数刻で着ける。道も広い。帰りもこっちを使えば、エリの服のエーテルだって節約」
「使わないわ」
エリの声が遮った。瞳はまだ空を向いている。だが声だけは管理者のそれに切り替わっていた。少女の震えはなく、都市の回線を通すときの重みを帯びた応答だった。
「この昇降機は、エリュシオンの正規の動脈。都市の定常エーテル供給の数パーセントを消費するわ。一度の起動で」
「数パーセント……」
「都市の壊死した末端が崩落してできた隙間なの。あなたが使っている経路は。あの不安定な環境では、服の保護機能と循環の法を最大出力にしても、わたしの接続がもたない。だからクレーナはここを使った」
エリの声は冷徹で、事実だけを述べていた。
「帰りも、ここを使うしかない。中枢から地表までを最短で直結する、最も太い管。これを行きと帰りで動かすということは、それだけ都市の心臓に負荷をかけるということ。何度も行き来はできないわ」
ナナハルトは口を閉じた。靴先が石畳の継ぎ目をなぞった。エリが地上の空を見るために、それだけの代償を払わせてしまったという実感が、泥のように重く沈んできた。
「……じゃあ、次にここを開けるのは、お前が地下に帰る時ってことだな」
できるだけ軽い声を出したつもりだった。
エリが小さく頷いた。その視線が、ふと、すぐそばに立つ大木の幹に留まった。
「……なぜ、直さないの」
エリが木を見上げたまま呟いた。
「幹の座標が、根本から圧力を受けて変形しているわ。このままでは成長のエネルギーが偏って、個体を維持できない。都市の農園なら、即座に支柱で矯正して最適値に戻すのに。なぜ、歪んだまま存在しているの?」
「戻せやしないよ。木は」
ナナハルトは答えた。
「風が吹けば曲がる。それでも太陽のほうへ伸びようとするから、あんなふうに歪んで育つんだ。この木、何百年もここにいるんじゃないかな。さっき、おれが登ったやつだよ」
エリは答えなかった。早春の空へ向かって歪みながら伸びる枝先を、じっと追っていた。風が一度吹いて止んで、また吹くまで、エリはその木から目を離さなかった。




