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地上の光、最古の扉

 出発の前日。

 ナナハルトがエレベーターの準備を確認するために中枢区画へ向かう途中、回廊でクイルに呼び止められた。

 長身の影が、回路の光を背に立っている。鴉の嘴を模した観測器が淡く明滅し、黒髪が光を受けて紫に偏光していた。


「ナナハルト。少し時間をもらえますか」


「あ、はい。クイルさん」


 クイルが右手を差し出した。その掌の上に、小さなブローチが載っていた。


 真鍮製の、鴉をかたどった留め具。翼を広げた鴉の胸に、赤い石が一つ嵌め込まれている。全体が親指の爪ほどの大きさで、古い装飾品のように見えた。だがナナハルトの指がそれに触れた瞬間、微かな振動が指先に伝わった。


「これは」


「私の感覚器の一部です」


 クイルの声は穏やかだった。


「記録用の端末と呼んでもいい。これを身に着けておいてください。地上でのエリュシオンの状態を、私がこちらから同期できるようになります」


 ナナハルトはブローチを手の中で転がした。軽い。だが振動は確かにあった。鴉の心臓のように、小さく、正確に、脈を打っている。


「クイルさんの目で見る、ってことですか」


「目というよりも、耳ですね。エーテルの振動を検知して、私のログに記録します。距離には限界がありますが、地表近くであれば都市の深部と接続を維持できるはずです」


 クイルが微笑んだ。いつも冷徹な表情でいる彼には珍しく、素朴で温かな、ほとんど兄のような微笑に見えた。


「万が一のとき、エリュシオンに何か異変があれば、私がこちらから声を届けることもできます。ごく限定的にですが」


 ナナハルトはブローチをコートの襟元に留めた。鴉の翼が革の上で微かに光った。


「大事になさらなくても構いません。壊れたら私がまた作りますから」


 クイルは穏やかに言った。だがその声の奥に、ナナハルトは別の音を聴いた。クイルは「壊れても大丈夫」と言った。だがブローチを手渡す指先は、慎重だった。

 自分の感覚器の一部を、人間に預ける。記録者が記録の道具を手放す。それはクイルにとって、目を一つ外して他人に託すのと同じことだろう。


「ありがとうございます、クイルさん。これ、大事にします」





 出発の朝。


 管理者専用の大深度昇降機は、都市の中枢から垂直に伸びる巨大な縦穴の底にあった。


 壁面は磨かれた岩盤で、回路の光が螺旋を描きながら果てしなく上方へ昇っている。天蓋の光はここまで届かない。代わりに壁面の回路が青白い照明となって、円形の空間を照らしていた。昇降機の床は六角形の石畳で、中央にエリュシオンの紋章が薄く光っている。


 ナナハルトは、巨大な円形の床を見上げて呟いた。


「……僕がいつも使ってる通路じゃ、ダメなんですか? あっちなら瓦礫がれきをちょっとどかせばすぐ地上に出られますよ」


「お前の這いずるような穴で、マトリクスを運べると思っているのか」


 クレーナが吐き捨てるように言った。黄色い瞳がナナハルトを射抜く。


「お前のルートは、都市が壊死した部分の隙間に過ぎない。だがこの昇降機は、中枢から地表までを最短・最安定で繋ぐ直通の動脈だ。地上の毒からエリを保護しながら送り出すには、ここを通す以外の選択肢はない」


 ナナハルトは肩をすくめて黙った。確かに、お忍びの町娘のような格好をしたエリを連れて、膝まで瓦礫に浸かりながら垂直の穴を這い上がるのは、想像するだけで現実的ではなかった。


 ナナハルトとエリが昇降機の上に立った。


 四柱が見送りに来ていた。


 ウーラが、小さな包みをナナハルトに渡した。


「道中のお弁当よ、ナナハルト君。エリュシオンには食べさせなくていいからね。あの子は食べなくても動けるの。でもあなたは人間だから」


 包みは温かかった。水耕農園の食材を使った、ウーラの手料理。地上では決して味わえない、清浄なエーテルの恵みで育った作物の味。


「中に果実のシロップ漬けも入れておいたの。あの子にも一口食べさせてあげて。栄養としてはほとんど意味がないけれど、味覚データとしては面白いと思うから」


 ウーラの目が笑っている。その瞳の奥に、ナナハルトはかすかな濡れた光を見た。だがウーラはそれを隠すように微笑み続けた。


 クレーナは何も言わなかった。壁に背を預け、腕を組んで昇降機を見下ろしている。その黄色い瞳は、エリが着ている服の各部の接合を、こちらが出発するその最後の瞬間まで点検し続けていた。


 ルカは離れた暗がりに座っていた。闇の中で、石床を叩く硬い爪の音だけが、彼の居場所を示していた。


「ルカ」


 エリが呼んだ。ルカの耳がぴくりと立った。


「留守を頼むわ」


「……当たり前だろ。僕は最初から反対だってことを忘れるなよ」


「忘れないわ。記録したもの」


「クイルに記録させたんだろ。僕に言ったところで意味ない」


 ルカの声は不機嫌だった。だが苛立ちで石床を叩いていた爪の音が、エリの声を聴いた瞬間だけ、止まった。


 クイルは昇降機のすぐ横に立っていた。長身の影が静かにエリに頭を下げた。


「よい記録を」


 それだけだった。短い言葉だった。だがナナハルトには、その短い言葉の中に祈りに似た何かが聴こえた。


 エリが昇降機の中央に立った。灰緑のケープはまだフードを被せず、黒い髪と、その間から覗く青い花の飾りが回路の光に照らされている。


 右手が昇降機の中央の紋章に触れた。重い振動が足元から全身を貫く。


 この扉が最後に開いたのがいつなのか、ナナハルトは知らない。クイルが「十四万六千九十七日ぶりの稼働です」と事も無げに告げていたが、その数字の膨大さはもはや実感を伴わなかった。だが、石と石が擦れ合う低い唸りや壁面の回路が一斉に輝度を上げる様は、地の底を這う何かが寝返りを打ったような凄絶さだった。


 昇降機が上昇を始めている。壁面の回路が下方に流れていく。四柱の姿が少しずつ遠ざかる。ウーラの白い手が小さく振られ、クレーナの瞳がまだ服を追い、ルカの影が暗がりの中で微かに動き、クイルの観測器が最後まで明滅していた。


 気圧が変わり始めた。耳の奥がきしむ。上昇するにつれて空気が薄く、冷たくなっていく。エリュシオンの清浄な常春の空気が少しずつ後退し、代わりに土と岩の匂いが降りてきた。石の壁を伝う水滴の音が聞こえた。地下水脈を突き抜けていく振動が昇降機の全体を揺らした。


 ナナハルトはエリの横顔を見た。


 エリはじっと上を向いていた。暗所に慣れた瞳がゆっくりと開き、その奥で回路の光だけが流れていた。

 上昇する昇降機の先を、エリは黙って見つめている。壁面の光が、流星のように瞳の中を流れては消えていく。


 やがて、振動が変わった。


 石の壁が途切れ、岩盤が荒くなった。昇降機の速度が落ちる。天井に巨大な石板が見えてきた。あまりに長く、閉ざされていた扉。表面に刻まれた紋章と封印の文様が、エリの手の延長として反応し、ゆっくりと光を帯びた。


 石板が動き始めた。


 低く重い、岩が岩を削る音がする。空気がすべて入れ替わった。エリュシオンの甘い空気の壁が崩れ、地上の大気が洪水のように流れ込んできた。


 冷たかったがナナハルトにとっては慣れた空気だった。だがエリの身体が微かに揺れたのを、隣で見た。


 光が差し込んできた。石の扉の隙間からの白い光だった。天蓋の均質な光ではない方向を持った光。太陽の光だった。予測不可能な方向から全身を照らす、制御されていない光だ。


 枯れ草と腐葉土の土の匂いが吹き込む。雪解けの水の匂いがする。それは、冷たい空気が鼻腔を通り、肺に入り、身体を震わせた。ナナハルトの身体が覚えている北方の春の匂いだった。


 エリが一歩も動かなかった。昇降機の中央に立ったまま、石の扉の向こうを見ていた。瞳孔が急速に変形している。

 暗所の丸い瞳孔から、光に反応して横長の長方形へ。山羊の瞳孔が、この都市の記録からも失われかけていたほど遠い記憶の中の太陽に向かって、収縮していた。


 ナナハルトはエリの手に触れた。

 黒い手袋の下の指が、微かに冷たかった。だが振動はあった。クレーナが縫い込んだエーテル循環が、薄い膜を通して掌に伝わってくる。生きている。動いている。


「エリ」


「……うん」


 管理者の宣言の声でもなく、ただ「うん」という小さな返事だった。


 石の扉の向こうに、灰色の空が広がっていた。

 忘れられた遺跡の石畳。苔に覆われた柱の残骸。その向こうに、雪が残る丘陵の稜線と、まだ芽吹いていない裸木の林と、薄い雲を通して降り注ぐ早春の光。


 ヴィンターガルド。王都の近郊。

 エリュシオンの出口は、この国の心臓部の目と鼻の先にあった。


「行こう、エリ」


 灰緑のケープが揺れる。金色の瞳が一度だけ瞬きをした。

 二人は石の扉をくぐり、地上に出た。


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