音の波紋
呼吸は浅く、喉は乾き、指先は冷たく、肩の筋肉は引きつっている。だが不思議なことに、恐怖の中で思考は止まっていなかった。考えることを止める方法を、そもそもナナハルトは知らなかった。
音が全部違う、と思った。猫耳の少年は音を出さず、鴉の男は声だけが響き、角のある少女は都市と同じ音がする。
自分だけが心臓と呼吸と靴と衣擦れの音を四方に撒き散らしていて、この空間で最もうるさいのは自分だった。
腰に巻いたカリンバの金属鍵に右手の親指が触れた。意識してのことではなかった。極寒の稜線で恐怖に縮こまった時も指は勝手にこの場所に戻ってきた。身体が覚えている安全地帯で、鍵の先端が親指の腹に触れて微かに揺れた。
一音が漏れた。弾いたのではない。触れた拍子に鍵が空気を切って金属の薄い振動が生まれただけだった。
だが地上の山中で聴いた時とは全く違う響き方をした。都市の壁と床が音を拾い上げ、増幅し、遠くまで運んで、たった一つの音が空間全体に波紋のように広がっていく。回路の青白い光がその波紋に反応するように微かに明滅した。
猫耳の少年の右耳がぴくりと動いた。ナナハルトは見ていた。殺気に固まっていた紺碧の瞳に一瞬だけ別の何かが混じるのを。動いたのは耳だけではなかった。肩の力がごくかすかに抜け、傾けていた重心がほんの少しだけ中央に戻り、身体全体が音のした方向に向き直ろうとする初動を見せたのだ。
次の瞬間には少年の顔に苛立ちが走った。自分の身体が勝手に反応したことへの怒りだった。紺碧の瞳が鋭く戻り唸りが一段低くなったが、耳は戻らなかった。前を向いた目とは無関係に、右の耳だけがカリンバの方向に残されている。
――嫌がっているのに、聴いている。猫みたいだ。
そう思った瞬間に指が二音目を弾いていた。今度は意識的だった。
恐怖を紛らわすためでも場を収めるためでもなく、弾きながら考え、考えながら弾いた。
ナナハルトにとって音楽は思考と同じ速度で走るものだった。三音目は旋律になりそこねた断片的な音の連なりで、指先の震えがそのまま乗っている。
父との思い出の曲の冒頭の数小節を弾こうとして途中で崩れたが、その不完全さが逆にこの空間に馴染んだ。機械的な完璧さの中に人間の呼吸が混じり込む違和感として。
猫耳の少年の両耳が、音を追っていた。本人の意思とは関係なく。身体が裏切っている。
殺意の顔のまま、耳だけが別の生き物のように動く。ナナハルトは森で見た山猫を思い出した。
獲物を狙いながら別方向の物音に耳を取られる若い猫。あの猫もこんな顔をしていた。殺したいのに気になるという矛盾を、全身で表現していた。
少し離れた位置から、角のある少女がこちらを見ていた。
都市の回路の光がカリンバの音に反応して明るくなり、その光が少女の金色の瞳に差し込んだ時、瞳の中で何かが動いたように見えた。瞳孔の輪郭が一瞬だけ形を変えたような気がしたが、猫耳の少年の耳の動きに意識を取られていたナナハルトはそれが何であったかを確かめる間もなく視線を戻していた。
「ルカが止まったのは、四百年ぶり」
少女が言った。声は抑揚を欠いていたが、そこに含まれている情報の重さにナナハルトの指が止まった。
四百年。彼女らは四百年存在する、見た目どおりの年齢でもなく、そもそも人は四百年も生きられない。
つまり人ではない何かだ。そして、この少年は四百年間、何にも止まらなかったのか。この少女はその四百年のすべてを知っているのだ。




