地上へ行く、という宣告
都市はエリだ。
あの天蓋の回廊を歩いた日、ナナハルトはその事実を突きつけられた。
都市の壁は彼女の皮膚であり、回路の明滅は血管を流れる熱であり、空気の循環は彼女の呼吸そのものだった。
カリンバに触れることはできなかった。指先が、自分の奏でる音を拒絶していた。
均等に散るはずの音が、途中で沈み込む。壁面が音を反射させる力が衰えているのだ。
日に日に訪れるたびに基準値がわずかにずれ、ナナハルトが馴染めば馴染むほど、その衰退は日常の一部として塗り潰されていた。慣れてしまったのだ。この静けさに。毎日少しずつ薄くなっていく音に、耳がいつの間にか基準を合わせてしまっていた。
自分はこの都市を削り、持ち出していたのだ。
ソスヴァルド。あの王の顔が、不意に目の前にちらついた。謁見の間で、持ち帰った金属片を掲げていた、あの大きな指。松明の揺れる光と、石造りの部屋に漂っていた、冷たい煤の匂い。
王は言った。「素晴らしい」「これまでの聖遺物とは格が違う」。
あの時感じた少しの違和感を、今になって思い出した。
母の咳を鎮めた薬も、リーゼルの足元を守った革靴も。あの夕暮れの食卓の温かさも。そのすべてが、この都市の皮膚を剥ぎ、血管を断ち切って得たものだった。ソスヴァルドに献上して受け取った金貨や銀貨の一枚一枚が、エリュシオンに傷を付けて得たものだった。
ナナハルトはゆっくりと背嚢の口を強く縛り直した。もう、都市の部品を王へ渡すことはできない。貰った褒美も無駄には使えない。
「……僕のせいだ」
低い声だった。掠れてはいたが、震えは止まっている。拳を握り込んだまま、彼は足元の床を見つめた。白いタイルの下を走る光脈が、そこかしこで枝分かれし、壁へと昇っていく。その光の一本が、不意に、呼吸を忘れたように明滅した。
「きっかけになったのは事実。あなたが部品を持ち出したことが」
エリの声は、ただの事実としてそこに置かれた。
「けれど、わたしにはないの。あなたを責める機能は。いくつもの要因が重なった結果を、一個人の責任とするのは、非論理的だから」
ナナハルトは頷いた。
喉の奥が詰まっていた。いっそ怒鳴られた方がましだった。百を超える傷を負いながら、怒りもなく事実だけを告げる都市の静けさが、ナナハルトの喉をゆっくりと締め上げていく。
拳を握り込んだ手のひらに、爪が食い込んでいた。よかれと思ってやっていた。その言葉さえ、もう声にならなかった。
最初とは何かが違っていたのだ。壁の光はどこか頼りなく、床から伝わる微かな震えも、以前より弱々しい気がする。
傷跡の数が、この場所の音を変えてしまったのだ。毎日、ここへ通うたびに増えていった欠片の分だけ。
それなのに、彼は自分の耳を過信していた。この場所に慣れすぎてしまったがゆえに、今日の音をいつもの音だと思い込んでいたのだ。
誰よりも音を愛していたはずなのに、一番大切な変化を聴き逃していた。
エリが動いた。
角が、内側から微かに青く明滅した。天蓋の照り返しではない色だった。
「データが不足しているわ。発生源を特定しないと、修復の計算が追いつかないの」
エリの声が変わった。
笛の音を幾層にも重ねたような、透き通っているのに底知れない響き。少女の喉からではなく、この広間の壁と床と天蓋が同時に震えて生まれたような、重い声だった。
「行くわ。地上へ。わたしが」
エリの瞳が、ナナハルトを真っ直ぐに射抜いた。
広間の壁を走る光脈が、一斉に青く脈打った。最初に出会った日、名を名乗った時にも、都市はこうして応えた。ナナハルトの存在が、この場所の深いところを揺らした証。
だが、それに続いたエリの声は、冷たかった。
「都市としての判断よ。地上の環境データを直接収集する必要があるの。エリュシオンを維持するために。これ以外に、都市を守る方法がないの」
ナナハルトは答えなかった。
何も言えなかった。自分がこの場所を傷つけた。その傷を確かめるために、彼女が外へ出る。二つの事実が分かちがたく結びついて、ナナハルトの口を塞いでいた。
カリンバの鍵に触れたまま、指を動かすことができなかった。この楽器が鳴るたび、都市はその音を隅々まで運んでくれた。傷だらけの身体で、彼の旋律を受け止めてくれていたのだ。
足の裏を通じて、都市の脈動が微かに届く。
拍子の間で揺れる、重ならない二つのリズム。エリの、そして都市の鼓動。
それはまだ、温かかった。初めてここへ落ちてきた日と変わらない、甘い気配をわずかに残していた。
けれど、その空気のすべてが、自分が持ち出した部品の分だけ、もう以前と同じではないことを。
ナナハルトは、残酷なほどはっきりと悟ってしまった。




